Aug 29, 2014

生の肖像

この秋に出版予定の7番目の詩集『モーツァルトになっちゃった』の表紙をお願いしている正籐晴美さんと、どの肖像画が一番本物に近いのか、真のモーツァルトを感じさせる肖像はどれかを電話で話し合った。モーツァルトの肖像画は数え切れないほどあり、YouTubeでモーツァルトの曲を聴くと動画にほんとうにおさない頃から最晩年のものまで、そして後世の画家たちによって様々に描かれているものまでたくさん掲載されており、きわめてファッショナブルなものやデザイン化されたものから、あまり気の入っていないどうかと思うようなものまであるが、結論として1789年の日付けを持つドレスデンの女性画家ドリス・ストックによる真横向きのペン画が一番近いだろうということになった。小林秀雄が絶賛している義兄のランゲによる未完の、ややうつむいた横顔の油絵(描かれなかったがピアノを弾いている)に雰囲気が共通している。晴美さんによれば、目がパッチリしているし、アゴも二重なので、筋骨たくましいというよりポッチャリした印象、の若い男である。このデッサンでも一番印象に残るのは横向きだがパッチリした左目、大きくてやや出目金気味で輝いている。優しい眼である。モーツァルト耳と呼ばれるやや奇形の耳は髪に隠れていて見えない。さまざまな伝記によると、容姿は160センチちょっとの小柄で、けっして大人物のようには見えなかったとあるが、芸術家としての風格が現れる前に生涯を閉じてしまったのだ。金髪で青い眼だった。おしゃべりで移り気で、ダンスやビリヤードにすぐに飛びつく浮気者という証言が多い。だが、小林秀雄も言うとおり、それらは内なる音楽の奔流にじっと眼を凝らさざるを得ないその気配をカムフラージュする振る舞いだった。それほど、日常生活から浮いて上の空で内部宇宙に釘付けにされていたのだ。5つの頃から馬車でヨーロッパ中を駆け回っていたのだから、定着的な社会人と比較はできない。ズレていてあたりまえだろう。ぼくは字が下手だと父に手紙で訴えているが、どうして、どうして、これも奔流のように鳴り響く内心の声をほとばしらせつつ筆を走らせている。彼は手紙で自分を教育した。もう一枚、最近見つけたのは、ザルツブルグの父がボローニャの音楽学者の神父に送った21歳のモーツアルトの肖像で、これは驚くべき印象だ。少しも若々しくない。日本人なら50歳手前ぐらいか、やや坊さんくさい、だが両の眼の異様な光が心に引っかかる。ほかを隠して目だけ見ると、その視線の強さにこちらがたじろぐ。噂のごとく大きな鼻だが唇は品よく結ばれている。その瞳は青だろうが、何かを一心に見つめている。こちらを向いているが、視線はこちらにはなく、自分の目の奥を思いつめて見つめているようだ。20歳そこそこですでにこんな眼をしていたのだ。ヴェルレーヌの妻がたずねてきた少年ランボーをはじめてみた時、その青い透明な眼の圧倒的な光に衝撃を受けたというが、21歳のモーツァルトもそんな眼をしていたに違いない。この世の眼ではない。
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Aug 28, 2014

黄金の純潔

読書中にモーツァルトの旋律について、「黄金の純潔」とニーチェが呼んでいたとの条りにぶつかって、なるほど、と感心した。まじりけのなさをそう名付けたのだろう。私はこの感触を「存在のエクスタシー」(存在の夢中=十全)と(こんどの詩集で)呼んでいる。つまり、夾雑物のない高速疾走のことを指している。本はランボーについてのもので、ランボーもまた夾雑物の混じらない全速疾走者である点で、共通性がある。このことについても詩集でランボーとモーツァルトを対談させた。だが今書きたいのは、そのことではなくて、ピアノコンチェルト27番についてだ。1年以上前からモーツァルトを聴きこんでいて、わたしのナンバーワンはこの曲になった。次はほとんど同じランクで合唱曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」である。たぶんこの2曲への思い入れは一生涯動かないだろう。この頃、27番はモーツァルトの自意識が最も強く現前する曲だと思うようになった。そしてその自意識には、常に馬車の疾走がからだに与える振動が作用していると推測する。強いメロディーラインと高速疾走のリズムとの交差が多くのモーツァルトの音楽を構成している。モーツァルトにおいては肉体についての意識が、晩年(といっても普通人ならまだ青年)に向かうにつれて強くなる。祈りの曲で<corpus>を強く意識するのも他例がない。普通なら<からだを超えて心を>となるところを、モーツァルトでは<まことのおからだ>となるのだから、変っている。その理由は<黄金の純潔>にあるだろう。教会で定められた観念からずり落ちて、他者の介入しない魂と直結しているところが、モーツァルトの純潔性なのだ。
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Aug 22, 2014

モーツァルト クラリネット協奏曲k622

『魔笛』k620と未完の『レクイエム』k626のあいだに挟まる、死のほぼ2ヶ月前の10月初めの完成。そんなことは微塵もにおわせぬふくよかで成熟した、それでいて軽妙で聡明な音楽。私の大好きなクラリネット五重奏曲k581が清新で透明感に満ちているのに比べると、大人の人間の息遣いが感じられる。柔らかな立体感。モーツァルトの音楽の到達点、ということは、ランドンに言わせれば、《かつて誰も到達できなかったヨーロッパ文明の頂点》に位置する音楽である。YouTubeの動画で聴く。クラリネットといえばザビーネ・マイヤーをまず思い、その動画もあるのだが、若い女性奏者シャロン・カムとプラーグのフィルハーモニック・オーケストラ、指揮マンフレッド・ホネックで聴く。素直で清潔な音がよい。モーツァルトは優れた演奏者に出会うたびに、すばらしい名曲を生み出していった音楽家で、このきょくもそうだがその最高の例が、妻が湯治に出かけていた温泉場の教会合唱指揮者のために作曲したたった46小節しかない傑作『アヴェ・ヴェルム・コルプス』だろう。最初は漠然とした印象だが、くりかえし聴いているうちに涙が出てくる。モーツァルトの魂をすぐそばで感じ取る。モーツアルトの時空超越性。クラリネット奏者アントン・シュタードラーはバセットシステムを開発した名手。彼につきっきりでクラリネットの奏法を工夫したらしい。がその工夫の跡など微塵もなく(死の影が微塵もないように)自然な優雅さに満ちているのがおどろき。30分間の至福。当分モーツアルトの音楽から出られそうもない。
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Aug 02, 2014

カール・ベームの交響曲39番K543

きっかけは何だったろうか。
YouTube サーフィンをしていて、フランスの若いソプラノジュリー・フッシュのハ短調ミサ曲の「聖霊によりて」をローレル指揮で聴いてからだったらしい。柔らかな初々しさに魅せられて、繰り返し、いやになるほど聴いた。それからつかまったらしい。ちょうど榎本櫻湖さんから、主宰する雑誌に詩を書かないかと誘われていたので、「聖霊によりて」というタイトルで書き始めた。それから、水かさの増した川に運ばれるように流されて…だが呼吸が止まるようなことはなかったのが不幸中の幸いだった。 いまは、39番交響曲のアダジオのびっくりするように叙情的なメロディーラインに涙が止まらないほど、病気中、というわけ。書店で中公新書のランドン版「モーツァルト」を見つけて、読みふけっている。その中で慰めてくれるフレーズに出会ったのがよかった。
《モーツァルトの音楽はいかなる人間によっても到達することのできなかった西洋文明の頂点を示す》
私の病いもちゃんと原因があったわけだ。物心付いてこの方、遥か見晴かしていた明かりの光源をようやく見つけた、南極探検家が苦難の果てに極点にたどり着いたような。わたしはいまゲラ待ち中の詩集のメイン作品を今日また書き直した。
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