Sep 28, 2008

詩人の声シリーズNo.263有働薫の夜は5冊の詩集から15篇を肉声で

天童大人プロデュースNo.263
La Voix des poètes 詩人の声
―目の言葉から耳のコトバへ―
    有働 薫
    Kaoru Udo
詩集『冬の集積』から詩集『ジャンヌの涙』まで
5回にわたって声にのせた詩集から、「岸壁の国」、「花の好意」、「メリザンドの娘」、「雪柳さん」、「天沼橋」、「スタラクタイツ・スタラグマイツ」、「ジャンヌの涙」等…15篇をあらためてお届けします。秋の夜のひととき、どうぞ詩人の肉声にお耳をお傾けください。
2008年10月21日(火)
  ギャルリー東京ユマニテ(GTH)
      開場18時30分  開演19時
     ℡03-3562-1305 fax03-3562-1306
入場料:予約 大人2500円 学生(学生証提示)1500円
    当日 大人2800円 学生(学生証提示)1800円
ご予約は上記のギャラリーに直接お電話いただくか、メール humanite@js8.so-net.ne.jpで、あるいはプロデュースの北十字舎に お電話03-5982-1834又はfax03-5982-1797 でお申し込みください。
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Sep 21, 2008

『空にまんまるの月』木村まき詩集 西田書店2008年7月刊

 小沢信男さんの跋文の付いた詩集で、このタイトルになんだか懐かしさを感じたのは、自分の詩集『ウラン体操』(1994年ふらんす堂刊)の「獣」という作品の最終行「空に缶みかんの月」というフレーズを思い出したからだ。木村さんの最初の詩集のタイトルとこのフレーズを比べてみると、木村まきさんの詩とわたしの詩の違いがはっきり分ると思った。見るものは同じ、詩へ動いていくきっかけも同じ。だから、詩の心は同じ。だが処理のしかたが違う。
この詩集全体を読んで、とてもうらやましいと思った。「巧拙をこえてわきだす泉のようなもの。」と小沢さんの跋にある。泉、澄んだ濁りのない水。ほっとする、さわやかな感触。小沢さんはそれを「詩の恩寵」と表現されている。そうだ、詩とは、人の心の澄んだ泉、まぎれのない心。人をほっとさせるもの、リフレッシュするもの。わたしの月は半月、それも缶詰めから出てきた蜜柑の一切れのくずれやすい、危うい月。このひねりよう。これがわたしの個性だと思った。良し悪しは言わずに。木村さんの月は満月。大きく、冴え冴えと澄み切っている。言葉は恐い。小沢さんのような人の心を見る達人にかかると、一瞬で見通されてしまう。わたしは泣きながら、この詩集を有働に送りなさいと、木村さんに勧めてくださった小沢さんの配慮に感じ入るのだ。
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Sep 18, 2008

シロウヤスさんによる『雪柳さん』の解題が終わりました

なにぬねの?のブログで、鈴木志郎康さんが10回にわたって詩集『雪柳さん』の解題をして下さいました。昨夜最後の詩が終わって、一段落です。解題が始まってまもなく、シロウヤスさんは今年の萩原朔太郎賞が決まりました。忙しくなられるのは目に見えていましたので、伸ばしてくださいと申し出たのですが、少しずつ読んでいきますからよろしく、とのご返事で、約3週間をかけて、お仕事とリハビリの間を縫って読みきって下さいました。私も追いかけるのが必死だったのですが、こんなに充実した日々を過ごさせていただいて、感謝しています。以下に第3回目の解題のコピーをペーストしてみます:
シロウヤスさんの日記
2008年08月30日
22:58 有働薫詩集『雪柳さん』の解題 その3
 「e.少女懸垂」の解題の追加
 この詩の解題を書くとき、「一つの言葉のシーン」という言い方をしたが、ちょっと言葉を補っておいた方がいいように思った。詩を書くということは、言葉を使うということで、書いている間、いろいろと言葉とつき合うことになるが、その言葉との付き合いが生活の中で場面を作るというわけだ。人によっては、机に向かって、またはパソコンに向かって、一気に書いてしまう人もいるし、散歩しながら頭の中で言葉を並べて、家に帰って、または喫茶店で書く人もいるだろうし、勤めの行き帰りに電車の中で作って、家でパソコンに打ち込む人もいうと思う。詩を書くそれぞれの人がそれぞれの「言葉のシーン」を持たなければ詩を書くことは出来ない。
   「e.少女懸垂」の場合、15行6連の言葉の配列が、全体で詩人の頭に浮かんだ言葉がそのまま構成されていると受け止めた。それぞれの連では意味がまとまっているが、連と連との間の意味の関係が希薄なので、その空間を言葉が浮かんでくる時の間合いと考えられる。第1連から第6連まで行くのに現実にどれくらい時間が掛かったか分からないが、「日曜の午後」、片づけものをしながらゆっくりと進んで、少女時代に抱いていた思いに行き着いたのではないだろうか。そして、少女の頃の自分を思って、詩人は自分の気持ちを立ち直らせることが出来たのではないかと想像する。そうだとすると、この「e.少女懸垂」という詩は詩人の心の動きをそのまま伝えていることになる。詩を書くことが心をリフレッシュさせた実践の記録と受け止めることが出来る。
   f.灯り
 13行1連の行分けの詩。
 この詩は、その時その時で違った百合の花を活けたガラスの花瓶を、いつもリビングの出窓に置いて、絶やしたことのない家が近所にあって、そこを通るとき楽しんでいた。その家の中ではいつもショパンの練習曲を挽いているのが聞こえる。ちなみに詩人はプレリュードが好き。ある日の夕方の買い物に行ったとき、トラジックなコンチェルトが聞こえたが、CDをかけていたのか、と思ったという内容。
 百合の花とショパンの練習曲から、その家の住んでいる人のイメージが生まれてくる。好みが合って親しみも感じてくる。そこで、いつもとは違うCDの「トラジックなコンチェルト」が聞こえてきたのだから、その人に何か変化が起こったのかと思う。タイトルの「灯り」は、その音楽の変化が、「灯り」を灯したように、その家に住む人の心の在りかが照らし出されたということと受け止められる。というふうに考えると、この詩の場合、活けられた百合や演奏されたショパンの曲が、心の在処を示すものとしての働きを持つことを詩人は見つけたのだといえよう。
コメント
2008年09月09日 22:25
sumire
「少女懸垂」について、「少女の頃の自分を思って、詩人は自分の気持ちを立ち直らせることが出来たのではないか」の分析に感動しました。なぜこの詩を書いたか、自分でもはっきりした自覚は無いのですが、集中の作品の中で、自分にとって「大切な」作品だという気持ちがずっとありました。それは、60代にもなる自分の挫折感と、40年以上前の自分の精神的な営みとの幅を計ろうとした試みだという、測ることによって何か現在の自分への解決策が求められはしないか、というかなりシリアスな思いがあって書いたらしい、と、「立ち直らせることが出来たのではないか」との読みをいただいて、ぱっと開ける思いがしました。ギリシャ悲劇のカタルシスに似た作用があった、といえば少し大げさかもしれませんが。シロウヤスさま、sumire拝
2008年09月10日 00:38
シロウヤス
sumireさん
作者が「ぱっと開ける思いがした」というのは、解題をする者にとっては冥利に尽きるということです。
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Sep 09, 2008

つよい集中力を要求する詩―中本道代『花と死王』2008年7月31日思潮社刊

『花と死王』というタイトルは必ずしも明快ではない。花はともかく、死王とはどんなイメージに誘うものなのか? 花と読み、その下で戸惑う。もしや満開の桜なのか?いや西洋の、例えばアネモネのような大輪花、あるいはフランス王室紋章の雪白の百合?それら高貴な花々の陰?いや、詩集後半の死王の描写に精嚢をもつとあるから、男性神に違いない。迷ううちに、渦巻きの中心に行き着くように、ぱっとイメージが結実する。ああ、これは生と死の結晶系なのだと。アンドロギュノスのように、宇宙を1つに凝結する系としての、自家受粉器官のある、生命体なのだと。たとえば、歌舞伎の女形、男性の肉体に支えられた華麗な女性形。男と女の片身ずつの結婚形より、美の領域はもっと強い凝結を求める。その凝縮の緊張によって恐ろしいほどに馥郁する開花。その花びらの陰影。死王は影であり、男であり、種であり、破滅の源であり、開花の基であり…ここまで来ると、中本道代の詩の宇宙がタイトルからも開かれ始める。
作品はそれぞれタイトルのつく4部に分けられていて、各部は5篇から11篇の行分け詩と散文詩から成る。
最初の部「辺縁で」(ヘンエンと読めばいいのだろうか)に含まれる5篇のうち、好みを言えば「水の包み」がいい。タイトル詩「辺縁で」もいいが、これはかなり難しい。この難しさが、中本詩の個性なのだが、それに迫るには、待てよ、もう少し読まなければ、と、どきどきして来る。作者と読み手の自分との距離をまだ測りかねるのだ。4つめの「水の包み」まで来ると、詩化された華やかさと、愛らしさ、そして消失の憂いに包まれ、優しいカタルシスがやってくる。進行にも余裕があり、とりわけ女の子らしくて、うれしい。しかしこのグループの作品の最後に、もう「死王」への呼びかけがはじまる。「水の包み」つまり生命が凝縮して雪に変わり、まだ本当の死ではないが、死への約束(予感)がはじまるのだ。
次のパート「高地の想像」は11篇で、詩集の中心を形成している。わたしは散文形で書かれた「犬」が好きだ。「わたしは犬といっしょにインドに行きたい。そしてフランスに。」こんななんでもないフレーズにたまらなく引き寄せられる。まだ知らなかった楽しい1日にめぐり合うように。どの作品も不思議な抽象によって構築されており、愛らしく楽しいのだが、その風景には「思想が、…崩れる予兆をなして、置かれている。」シュペルヴィエルのモノクロの肖像写真が目に浮かぶ。都会に住みつつ、常に大自然の風と交歓している詩人。鳥が鳴くのも、猫が眠りこけるのも、本当の生は一瞬である。だがわたしたちには記憶がある。詩がある。と抗ってみる。
「カタラ」と名付けられた7篇。ここはプライベートパートといってよい。あるいは記憶の。焼き場へ行く道に祖母と「カタラ」の葉を摘みに行くという。カタラとは、例えば北九州のわたしの母の故郷ではサルトリイバラの葉を、ふかし団子を包むために摘みに行く。ハート形の少しだけ臭いのある、とげのあるつる植物の葉なのだが、そんなことを想像した。このパートでは詩化の力、詩人の長い時間におよぶ精進の成果といったものを強く感じた。
「新世界へ」と題する最後のパートは5篇。現在世界の肌触り、ざらざらした、無機質な、潤いのない、何層にも重なって果ての見えない生。はかなさとは反対の、仏教でいう輪廻の世界にわたしたちは入ってしまうのではないか?「結局はまたそこに還っていく。」その中に死王は姿をあらわし、「弱々しい精子が零れ落ち」る。弱々しい生殖によってくり返される生の反復、終わることのできない生。香り高い開花は良き死を迎える喜び、という逆転への直感がここで完結する。
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