Jan 05, 2017

新年おめでとうございます

今年は未知の年、どうなるのか、なにが起こるのか、期待や不安というのではなく、価値、幸不幸などの人間レベルを超えた何かが予感されます。何かとは何か? わたしたちが乗っている地球という惑星が猛スピードで回転していることだけは確か? 二一世紀の人間としてそういう観念を持っており、そういったことを折りにつけ修正しながら、もう少しのあいだ生きていくのだろうというのが、現在の意識です。
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Dec 27, 2016

2016年活動記録

「プローズ 馬への」  洪水17号 2016年1月 「同級生夫婦」――オペラの下書きとして うろこアンソロジー 2015年版 2016年1月 「十四日の月はいっそう高く輪郭がぼやけて」 「ルピュール」22号 2016年3月 「フランスの詩を読む」  淑徳大学公開講座第三期 2016年1月~3月 『モーツアルトカレンダー』  エッセイアンソロジー詩集  2016年5月20日 アルケオップテリックス刊 「日の出 月の出」  「ユルトラバルズ」26号 2016年5月30日刊 「イギリス風の午後」(5)訳 J=M・モルポワ詩 「ユルトラバルズ」26号  「フランスの詩を読む」  淑徳大学公開講座第第四期 2016年7月~9月 「梅雨葵 TSUYU AOI」  「ルピュール」23号 2016年10月15日 「梅雨明け」   「未定」21号 2016年10月 「猫科の」   「ユルトラバルズ」27号 2016年12月 「イギリス風の午後」(6)訳 J=M・モルポワ詩 「ユルトラバルズ」27号 「同級生夫婦」第二回 オペラの下書きとして  「うろこアンソロジー」2016年版 2016年12月27日
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Oct 19, 2016

k622 お別れの曲

頭の中でk622のパッセージが鳴っている。ここ10日ばかりこの曲だけ聴いている。幾人かのソリストを聴いたあと、ベニーグットマンのような雰囲気のデンマークのクラリネティスト、マルタン・フロストにはまっている。演奏ライブが見れるので、その金髪とクラシックらしからぬ演奏身振りがセクシーで(若い、私からしたら可愛い)それが楽しい。音だけならもっとふくよかで哀愁のこもった透明感、いわゆるモーツァルトブルーのたっぷりした名演もあるのだけれど、力まずにさらっと全曲を流す解釈がいまは聴くほうの負担も軽くていい。こうやってモーツラルトは生き繋いでいくだろうと、安心する。夜のコンサートのお楽しみの、大衆の、世界の、人類の、地球上にのさばった人間の、罪を洗い流すような、若い眼にしか見えない分光ブルーの、混じり気ない透明感が何ものにも代えがたい。死ぬ1月前に完成した、たぶん作曲者自身は1回ぐらいしか実演を聞いていないまま世を去っただろう。しかし本人の言うように、いつも彼の曲は頭の中で鳴り続けているのだから、聴衆に現実に聞かれなくてもかまわない、その代わり何百年経っても、世界中で演奏される、録音で、数え切れないほどの人の脳髄の中で演奏され続ける。私のように年老いた女も朝から手持ち無沙汰に気分がふたぎながら頭の中で聴き続けて、どうにか今日の一日を生きようとしている。考えてみると、この手持ち無沙汰が、人生の宝石なのだ。つまり、めったに得られない貴重なもの……
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Oct 06, 2016

モーツァルトはモロッコへ行った

モロッコの街から少し外れた大西洋に面した小さな海辺の町で2週間海をみながら過ごしました。砂と海と空と50度近い気温と…私ではなくモーツァルトのことです。 この頃は最後のピアノ協奏曲と低音の響き渡るクラリネット協奏曲K622をくり返し聴いています…四季が崩れてきているような予感がぬぐえないのですが、18もの台風に晒されたこの夏からの鈍い色の便りです…
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Sep 18, 2016

まぼろしのように

まぼろしのように猫が来る 死んでから四年が経つ スーがまだ生きていた頃 お姉ちゃんが病気だから と家の中には入らせなかった 白と黒の小型の猫 だんごになった尻尾の先を わずかに動かして 帰っていく どこにかえっていくのだろう 眼は澄んでいて優しい 短い視線の交換が言葉を言うよりずっと確実に思われる ひと声も鳴かず まるで来なかったように あらわれ 何の痕跡も残さずに 居なくなる 今朝は雨戸を開けるのが遅れたせいか 姿がない
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Aug 28, 2016

モーツァルトカレンダー 無産のパイオニア

5月にエッセイアンソロジー『モーツァルトカレンダー』を私家版で出版してから、3ヶ月が経ちますが、以来なぜモーツァルトなのかをずっと考えてきました。齢70を越えて、なぜ7,8歳の頃から耳にしているメロディーの断片がこうも強烈に私の内部に復活してきたのか? まあ、毎日のご飯のような音楽だからな、で納得しようとしましたが、そういう理屈ではどうも収まりません。今朝になって突然、「無産のパイオニア」という言葉が降りてきました。これだ!というのは、講座の夏休みに入って、長年やりかけていたモルポワの『イギリス風の午後』の追い込みに入って、巻末付録のグロッサリーを訳し終え、続いて9月からの講座のテーマ、アンドレ・ブルトン『ナジャ』を詳しくもちろん翻訳で読み込んで、これらがからまって「テラン・ヴァーグ」なる言葉が立ち上がって来、それと『イギリス風の…』のメインテーマであるルソーの『新エロイーズ』の成り行きと、これらが渦巻いて中心の渦の目のところから飛び出してきたのがこのフレーズです。そしてコレは私だという「達観」も。大げさですが、たしかにこの経過は、私にとって達観、つまり到達点なのです。いま、若いモーツアルトが父親に送った手紙の一節が思い出されます。《ぼくの財産はすべて今ぼくの頭の中にあります。》この考えはルソーの『新エロイーズ』とぴったり重なります。さらに、よく感じることですが、フランス現代詩を読んでいると、その詩人のオリジナルな言葉と思っていたものが、ほとんど必ず、他の詩人たちとの共通な言葉であるという驚きです。あれほど自我の強烈なヨーロッパの意識がなんと全てつながっている、ブルトンの言う「通底」です。「テラン・ヴァーグ」というこのあいまいな、訳しにくい言葉も詩人たちの共有財産だったのだと気付いて、安心するやら、あきれるやら、口をあんぐりの状態です。
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Aug 24, 2016

モーツァルトカレンダーで生き返ったグールド

グールドはデビュー曲と死の1年前の最後の演奏が同じゴールドベルク変奏曲で、音楽的生涯はこの二つの演奏にはさまれた25年間だったといえるだろう。その間に弾いたモーツアルトは遊びだといいたがる音楽通が居るが、そうではない。グールドはオリンピック選手のようにその瞬間に生涯を現出する。どんな小曲でも一発勝負だ。それは演奏を聴けばすぐにわかること。日本にはバッハ、バッハと持ち上げる音楽通が多すぎる。下心が見え見えで、醜い。パリの街角にグールドの演奏に耳を傾けるモーツアルトの小振りな像があったらいいのに。そうやって、この素晴しい音楽家を利用するだけで何の力添えもできなかった見栄っ張りなフランス文化のおとしまえをつけたい。私が大富豪だったらそうするだろう。この哀しきふたりの天才の魂を鎮め、音楽の魂の永遠性を記憶するために。
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Aug 12, 2016

 『モーツァルトカレンダー』とモーツァルト

昨日は今年からの新しい国民の休日「山の日」でしたが、私は山ではなく、詩の朗読会に出かけました。知らない街三軒茶屋を2時間ほど歩き回って街なかの山歩きとなりましたが、素足のサンダル履きゆえさっそく靴擦れができ、6時の開演ぎりぎりに会場に着いた頃にはとにかく靴を脱ぎたいという思いがいちばんでした。5月に出版した『モーツァルトカレンダー』を編集してくださった榎本さんの「サクラコの部屋」第2回です。前もってメールと携帯があったので、これはお客が少ないなと思って応援お礼のつもりだったのですが、どうしてどうして、YAMAHAグランドピアノがメインホストの狭いスペースに超満員というところでした。サクラコチャン、おめでとう! 彼女が創ってくれた本はなんといっても目次の見開きが端正で、はやく本文に入りたいというどきどきした気持を作り出してくれています。カニエ・ナハさんの表紙もその頭脳的でカシコイセンスをとても気に入っています。若い人に接近してと、嫌がる向きもいらっしゃるのですが、気にしない気にしない……私自身は若手の才能に応援してもらって大成功だったと思います。はつらつとして、センス抜群!何しろコノ3人、音楽大好きという共通点があるわけで。私はグールドに文句をつけられているモーツァルト専門ですが。自分のことばかり書きましたが、朗読会は本番に入る前に失礼してしまいました。どうにも足が痛くて。ごめんなさい。カニエさんもお見かけしましたが、あのなんとも少年っぽさの残る視線をちらといただいただけで、夜の街に出てしまいました。私の山の日、孤独な満たされた休日でした。
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Aug 08, 2016

モルポワの詩集”LA MATINEE A L’ANGLAISE”

和訳版を出版したいと考えています。 目下、同人誌『ユルトラ・バルズ』に分けて掲載中の訳をあと1,2号で終えて、1冊の詩集のかたちで刊行する予定です。原著者のモルポワ氏も待たれていることゆえ、著者前書きをもらって添えるつもりです。 題名についてですが、バルズには「イギリス風の午後」としていましたが、LA MATINEE の語感を保存したいので、たなかあきみつさん他の方々のご意見を伺って、『英国式のマチネ』としようかあるいは『英国式のお茶の時間』、『イギリス風ティータイム』などもありですが、ここで問題なのは、現代でマチネといえば、即、昼間の劇や音楽の興行がイメージされてしまうことで、ルソーの『新エロイーズ』中のフレーズであるこの場合の意味は、そうではなく、家庭内の親密なお茶の時間のことだということです。どうしても「家庭内の」のイメージを求めたいので、幾組かのカップルの間で交わされる本質的な会話、信頼感を基礎とする複数の会話が行われる時間がイメージできるタイトルが求められます。まだ確定までには時間がありますが、大いに悩むことと思います。
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Aug 05, 2016

山田兼士のブログ 7月4日

例によってぼんやりしていて、昨夜ようやく敬愛する山田兼士さんのブログの7月4日号に(その日はちょうど山田さんのお誕生日で)63歳の詩集読み初めとして3冊の詩集のうちの1冊に『モーツァルトカレンダー』を挙げていただけているのに氣付きました。寝しなに見つけたので、眠れなくなって困りました。よかったら「山田兼士のブログ」2016年7月42ページのうちの36ページ目をご覧になってください。書評として嬉しかったのは、「音楽エッセイ詩と呼ぶべき新しい作風も見られる」のご指摘。譜も読めない、ドイツ語も知らない私としては、超過分のお言葉です!反していやだったのは「モーツァルトを偏愛する詩人」とのネーミングです。あのー、先生、そんな私がいま自分の土俵に取り込めるかもと考えたのがモーツァルトで、他の音楽家もたくさん「偏愛」しています、でもまだ言葉にできない、モーツァルトについては再認識の出会いが70歳を超えてからあったために、ながーいじぶんの生の軌跡と重ね合わせることができると感じたということなんですけど、もちろん《なっちゃう》ほどだーいすきではあるのですが。みっともないからこの辺で止めましょう……今は《許しがたい》と批評したグールドの弾くモーツァルトに首っ丈、と言い募ればまた、めろめろでみっともないです。
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Jul 31, 2016

なにごそつかす

高見順文学振興会の川島さんにチケットをいただいて竹橋の近代美術館に「声ノマ」を見に行った。最初はあまりにも言葉の集積の甚だしさに生は記録より先行するでしょうと、多少の反感さえ覚えながらうんざりした気分で展示を巡っていったが、記録ビデオの「まいまいず井戸」のところでそれまでのわだかまりが逆転した。詩が自分のなかに緩やかに立ち上がってきたのだ。東京都羽村市にある、まるで街角のお稲荷さんのような「遺跡」を記録する詩人に全身感動を(この展示は「全身詩人」と名付けられている)、禁じ得なかった。この時点で28日、遅い梅雨明けの日にここを訪れたことが特別な事件になったのだった。この死んで久しい場所をこうもみずみずしく息を吹き返させる詩人の霊力に衝撃を受けたのだ。私はたしかに、この螺旋状の道筋を地中に向かって水を汲みに降りていく昔の人の姿を幻視し、「詩人の静かな力」はたしかに存在し、この詩人はそれを証明したいのだなと合点が行った。昭和14年、同い年のこの人が全身詩人であれば、生活にこだわり続ける鈍さそのものの老化した私は3分の1詩人だろうと哀しくなった。生と死と性の間で死にかけた虫のように毎日息をしている自分を。帰りの北の丸公園で歩く先々に落ちているはしぶとガラスのつやつやした羽を、羽元を削ってペンにしてみようと拾った。一枚拾うと、またその先に1枚落ちているのが見つかり、たちまち握る手のひらが悪魔の花束を握っているようで寒気がした。今日、日曜日送られてきた「ふらんす堂通信」で蕪村がまだ寒の内の鶯を歌った、藪の中のうぐいすの身動きを感じている、この《なにごそつかす》というフレーズもまた「永遠の全身詩人」(何度でも蘇り続ける、つまり永遠の詩)だと確信した。詩の言葉とは時間の圧倒的な経過のなかでよみがえる力。そして音楽もまたそのように。
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Jul 30, 2016

モーツァルトを否定するグールド

多くも少なくもなく
ぱちっと決まっている
まるで満月のように
満たされて
生きることはこのようでありたい
このようでありえる

グールドが最も愛した「ゴールドベルク変奏曲」
モーツァルトを許しがたいと言ったグールドは
敬愛するバッハの曲のうち最もモーツァルト的な
この変奏曲を死の直前に全身全霊を賭けて弾ききった
(弾き終わったときのぐったりと魂の抜けた表情)
グールドがバッハの中の最もモーツァルト的な
音楽を自分のものと感じ取っていた証し

ある伯爵付きの若い音楽家が
伯爵の眠れない夜々のために心をこめて弾いた
(若い彼にはかなり難しかった)
優しくしみじみとしたアリアと30のバリエーション
生きていくいのちの労りに満ちた音楽
山あいの岩清水が微かな水音を立ててさいしょに流れはじめる
瑞々しいいのちが生れてくる瞬間

グールドがゴールドベルクになり
バッハが伯爵になり
ひとりひとりの仕切りが取れて渾然と溶けあって流れ出した
永遠の音楽

そしてそれは風雲児モーツァルトへの
時を超えた心遣い
モーツァルトを嫌いなのではない
もっと激しい 許しがたいのだと

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Jul 25, 2016

過去の言葉を捜さずに、今の言葉を作ろう

70代も後半に入ると、人の名前が出てこない。自分だけに限ったことではなく、同世代の友人たちも同じような現象を示すのだから、孤立感はない。家に篭って机に向かっている時間が多いので、対話が不足していると、やや危険をおぼえるが、対話を求めて街に出かけていくのも面倒くさい。一人でいれば充分充実しているのだから。26歳ほど驚異的に生きたスーが死んで2年半、話しかける相手のお代わり君を、残された当初は欲しいと思ったが、今はさまざまなことを考えると、もうひとりで良いと決めた。あれ以上の友は見つかるまいと。その代わり、時々電話できる相手が戻ってきたので、今の自分のキャパにちょうどいい友を見つけたといえる。そして、もうでて来たがらない過去の名前を探すより、今の自分を軸にしたネーミングで語る方がずっと効率が良いと思い当たった。ほらほら、あれあれ、は止めよう。終焉前のワードメイキング、これってマラルメが試みていたことじゃないか?いま講座のためにマラルメを勉強しています。好感、好漢、健気で純なところがまったく日本人好み。ルネ・シャールと真反対で、二十歳になったとき兵役検査さえ落第するほどの貧弱な肉体の持ち主、とても「国家防衛」力にはなれない、だが時々いるよね、貧弱な肉体の器に強靭な精神を湛えている人間が。
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Jul 19, 2016

「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」6月26日

何ごとにもぼんやりで、昨日やっと谷内さんがご自身のブログで取り上げてくださっているのに氣付きました。検索がけっこう大変なので(氏のブログを先月26日まで繰って行くのが)、以下にコピーさせていただきます:
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) 日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。有働薫『モーツァルトカレンダー』 2016-06-26 10:47:20 | 詩集有働薫『モーツァルトカレンダー』(arxhaeopteryx、2016年05月20日発行)  有働薫『モーツァルトカレンダー』はモーツァルトの曲(タイトル)と詩を組み合わせたもの。私は音楽をめったに聞かないので、有働が紹介している曲がどのようなものか知らない。だから、感想は、有働の意図からかけ離れたものになるが、詩を読んで感じたことだけを書く。  「岩たばこの栽培」。その途中の部分。 正午の鐘が鳴った はじめいくつかは一つずつ鳴り やがて連続して激しく鳴り はげしくしばらく鳴りつづけ やがて低く 遠ざかるように消えていった  ここがとてもおもしろいと思った。  「はじめ」「激しく」「はげしく」「しばらく」ということばが鐘の音のように似ているけれど違う感じと重なる。同じ音なのか。違う音なのか。音痴の私には区別がつかないが、鐘が鳴り響くとき、その音と音とのぶつかりあいが、ここに再現されていると感じた。「は」の音が「濁音」もふくめて鳴り響く。」げ」「く」「く」と「か行(が行)」も響きあう。  これに、「鳴った」「鳴り」「激しく鳴り」「鳴りつづけた」。「鳴る」の繰り返し、「な」の音が割り込んできて、「は」「か行」の音を散らばらせる感じがする。  にぎやかで、とても楽しい。  そのあとの、 日差しが強い  セーヌ川という名前はね、ラテン語のSequanaつまり地質学でジュラ系セ  カニア階の意味、ローマ人がつけたんだね 連れがあるつもりになる  と展開する。「セーヌ川云々」は何が書いてあるのか、実は、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それが効果的。まったく新しい音として響いてくる。「意味」はあるのかもしれないが、「意味」のない「音」そのものになって聞こえてくる。その音のなかには、Sequanaという「読めない」音がある。何これ? 読めないから、聞こえない。  でも、これって、こういう感じって、鐘の音に似ている。  全部聞こえているつもり。でも、そこには聞こえない音がある。鳴っているのはわかるが、それを自分で再現できない音。その「不可能性」が鳴っている。「自分」とは「無関係/無縁」のものが、そこにあって、それが「世界」を華やかにしている。「無意味」をきらきらとばらまいている。  で、この「聞こえない/無意味」というのは、もしかすると、「他人」だね。自分とは完全に断絶した存在。  「断絶している」「他人である」。でも、だからこそ、「接続」したい。「接触したい」。繋がりたい。「断絶した/他人」を「私」につなぎあわせるとき、「世界」に革命がおきる。「私」は新しい世界に必然的に入り込んで行く。  音楽にのみ込まれるときというのは、こんな感じだなあ。  「他人」は、このとき「連れ」になる。  そして、この「他人」が「連れになる」というのは、どっちが先かよくわからない。「連れになった」ときに、「他人」がはっきり存在しはじめたのかもしれない。「連れにならない他人」というのは、たぶん、存在していない。「聞こえない音」なのだ。  こういうことばのあとに、さらに 教会堂の柵のねもとで サンドイッチをたべた  あ、ここがいいなあ。「世界」に抱かれている感じ。「世界」と完全に「連れ」になった感じ。  ほかは、よくわからないのだけれど。
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Jul 16, 2016

『モーツアルトカレンダー』コメント

作曲家モーツアルトとピアニストグレングールドとの関係は、グールドとバッハの関係より数段面白いです。K333のソナタを弾き終わったグールドの得意そうな手つき顔つき、子どもがばったを捕まえてきたときのようです。《ドウダイヤッタゼー》あんなに悪口を言って、この得意顔ったら!
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