Nov 03, 2017

セルクル第4回は時間をはみ出して活発な話し合いでした

2017年11月1日(水)1時~5時
セルクル第4回 1時~「ボードレールの詩集『悪の華』中に続けて集められたスプリーンと題する4つの詩について」 レポーター有働薫
3時~「わたしのフランス詩」朗読と10分間スピーチ ①西宮順子 アポリネール「ミラボー橋」②金沢力 マラルメの3つの詩「もうひとつの扇」「アルバムの一葉」「ベルギーの友だちの想い出」③田中もえぎ ヴェルハーレン「朝」④細田傳造 アンヌ・ポルチュガル「わがスザンナは/すみれ色」⑤有働薫 ジャン=ミッシェル・モルポワ「小声で」
とりわけ3時からの朗読とスピーチには多すぎるほどの発言があり、時間が足りなくて5時をまわってしまいました。各メンバーの詩の好みもよく現れていて盛り上りました。
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Oct 12, 2017

セルクル第3回が無事に終りました

2017年10月4日(水)1時からのセルクル第3回はディエゴさんのウンベルト・サバ、田中もえぎさんの「イリュミナシオン」後半 のレポートでとても充実した3時間でした。ご出席のみなさまたいへんお疲れ様でした。自分ひとりではなかなか読みきれない詩をグループで読むと、面白いように楽しく読み解くことができます。書くだけではなく、詩をよく読むこと。レベルの高い読み手を目指して訓練したいと思います。
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Sep 07, 2017

セルクル第2回2017年9月6日(水)午後1時~5時

細田傳造さんとマルティーナ・ディエゴさんをレポーターに迎えて、それぞれ1時間半、前後に30分の休憩をはさんでの長丁場でしたが、きわめて活気に満ちた読書でした。翻訳をテキストにしていますが、随時原詩を確かめながらの厳密な読みを創出することができました。このことは詩を創ること以上に大切な詩の行為であると出席者のみんなが自覚した上での真剣な取り組みです。5時前に解散しましたが、各人くたくたで、今朝は日常に元気に戻れたでしょうか。月イチ、第1水曜日の午後、生きている限り続いて行く日常へのインパクトです。皆さんお疲れ様でした、来月も仏・伊詩を媒介にして、元気で出会いましょう。
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May 20, 2017

淑徳公開講座が7月から自主講座に模様替えします

会場を池袋西口に移して、あらたにイタリア現代詩を加えて、7月から月1回のサークル活動に発展します:

東京芸術劇場会議室
セルクル「フランス詩とイタリア詩を読む会」  
le cercle de la poesie francaise et italienne
団体名  セルクル  登録番号42544
このサークルは日本語に翻訳されているフランスの詩とイタリア詩を読んで、内容を検討する勉強会です

期間: 2017年7月から2019年6月まで全20回(8月と1月は休み)
    月1回、第1水曜日午後1時から2時半までイタリア詩、午後3時から4時半までフランス詩
内容: 淑徳大学公開講座全25回でもれたフランス現代詩の重要な作品を、各回レポーターが担当してテキストを声に出して読み、検討する
会員:  金沢 力、城野兼一、田中もえぎ、成瀬喜久子、西宮順子、細田傳造、佐藤秀樹、マルティーナ・ディエゴ、有働薫 (定員12名)
会場:  東京芸術劇場5階ミーティングルーム
     〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-8-1    
             ℡ 03-5391-2111                   
 池袋駅西口(立教大学側)地下2b出口から入り、エントランスホールから      エスカレーターで5階へ。5室のうち各回どれかに決定
     1回につき会場費2600円から3000円を出席者で分担
会費:  イタリア詩、フランス詩各1回1000円
代表者:  〒194-0042 町田市東玉川学園1-4-7
      有働 薫   ℡ 042-726-5099
             email : suu210114@gmail.com
担当者:  〒171-0051 豊島区長崎3-5-1 
      西宮順子  ℡ 03-3974-3757
      イタリア現代詩講師: 〒114-0015 北区中里2-22-10      
アシビハイツ202号室
      マルティーナ・ディエゴ  080-4609-4112
 
セルクル 日程表 テキストおよびレポーター

第1回 2017年7月5日(水)  ランボー「酔いどれ船」訳詩の比較  佐藤秀樹  
テキスト:プリント
第2回 2017年9月6日(水)  
ランボー 「イリュミナシオン」(前半)  細田傳造  
テキスト:ちくま文庫『ランボー全詩集』宇佐美斉訳 
第3回 2017年10月4日(水)  
ランボー 「イリュミナシヨン」(後半)  田中もえぎ  
テキスト:ちくま文庫『ランボー全詩集』宇佐美斉訳 
第4回 2017年11月1日(水)  
ボードレール『悪の華』中の「憂愁」と題する4篇を読む   有働薫  
テキスト:詩誌『詩学』2003年1月号山田兼士「フランス詩を読む」のプリント
第5回 2017年12月6日(水)  
「フランス詩と私」 各会員のテキスト朗読と10分間スピーチ
第6回 2018年2月7日(水)  
ヴェルレーヌ 「秋の歌」と「空はいま、屋根の上に」を読む 西宮順子  
テキスト:岩波文庫『ヴェルレエヌ』詩集 鈴木信太郎訳
第7回 2018年3月7日(水)  
ランボー 「オフィーリア」と「母音」を読む 城野兼一  
テキスト:ちくま文庫『ランボー全詩集』宇佐美斉訳
第8回 2018年4月4日(水)  
ジャック・ルーボー「極私的東京案内」 金沢力  
テキスト:水声社『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』田中淳一訳 
第9回 2018年5月2日(水)  
ポール・エリュアール「愛 詩」 細田傳造  
テキスト:プリント
第10回 2018年6月6日(水)  
ルネ・シャール「あるじのない槌」  佐藤秀樹  
テキスト:プリント
第11回 2018年7月4日(水)
ジャン=ミッシェル・モルポワ『青の物語』   有働薫  
テキスト:プリント
第12回 2018年9月5日(水)  
ジェラール・ド・ネルヴァル「ファンテジイ」  マルティーナ・ディエゴ  
テキスト:プリント
第13回 2018年10月3日(水)  
エドガー・アラン・ポー「大鴉」ほか   田中もえぎ  
テキスト:岩波文庫『対訳ポー詩集』加島祥造編
第14回 2018年11月7日(水)  
マラルメの散文詩「秋の嘆き」と「冬の慄き」  有働薫  
テキスト:プリント(山内義雄訳)
第15回 2018年12月5日(水) 
「思い出の中のフランス詩」 各会員の朗読とスピーチ      
(以下未定)
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Jan 05, 2017

新年おめでとうございます

今年は未知の年、どうなるのか、なにが起こるのか、期待や不安というのではなく、価値、幸不幸などの人間レベルを超えた何かが予感されます。何かとは何か? わたしたちが乗っている地球という惑星が猛スピードで回転していることだけは確か? 二一世紀の人間としてそういう観念を持っており、そういったことを折りにつけ修正しながら、もう少しのあいだ生きていくのだろうというのが、現在の意識です。
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Dec 27, 2016

2016年活動記録

「プローズ 馬への」  洪水17号 2016年1月 「同級生夫婦」――オペラの下書きとして うろこアンソロジー 2015年版 2016年1月 「十四日の月はいっそう高く輪郭がぼやけて」 「ルピュール」22号 2016年3月 「フランスの詩を読む」  淑徳大学公開講座第三期 2016年1月~3月 『モーツアルトカレンダー』  エッセイアンソロジー詩集  2016年5月20日 アルケオップテリックス刊 「日の出 月の出」  「ユルトラバルズ」26号 2016年5月30日刊 「イギリス風の午後」(5)訳 J=M・モルポワ詩 「ユルトラバルズ」26号  「フランスの詩を読む」  淑徳大学公開講座第第四期 2016年7月~9月 「梅雨葵 TSUYU AOI」  「ルピュール」23号 2016年10月15日 「梅雨明け」   「未定」21号 2016年10月 「猫科の」   「ユルトラバルズ」27号 2016年12月 「イギリス風の午後」(6)訳 J=M・モルポワ詩 「ユルトラバルズ」27号 「同級生夫婦」第二回 オペラの下書きとして  「うろこアンソロジー」2016年版 2016年12月27日
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Oct 19, 2016

k622 お別れの曲

頭の中でk622のパッセージが鳴っている。ここ10日ばかりこの曲だけ聴いている。幾人かのソリストを聴いたあと、ベニーグットマンのような雰囲気のデンマークのクラリネティスト、マルタン・フロストにはまっている。演奏ライブが見れるので、その金髪とクラシックらしからぬ演奏身振りがセクシーで(若い、私からしたら可愛い)それが楽しい。音だけならもっとふくよかで哀愁のこもった透明感、いわゆるモーツァルトブルーのたっぷりした名演もあるのだけれど、力まずにさらっと全曲を流す解釈がいまは聴くほうの負担も軽くていい。こうやってモーツラルトは生き繋いでいくだろうと、安心する。夜のコンサートのお楽しみの、大衆の、世界の、人類の、地球上にのさばった人間の、罪を洗い流すような、若い眼にしか見えない分光ブルーの、混じり気ない透明感が何ものにも代えがたい。死ぬ1月前に完成した、たぶん作曲者自身は1回ぐらいしか実演を聞いていないまま世を去っただろう。しかし本人の言うように、いつも彼の曲は頭の中で鳴り続けているのだから、聴衆に現実に聞かれなくてもかまわない、その代わり何百年経っても、世界中で演奏される、録音で、数え切れないほどの人の脳髄の中で演奏され続ける。私のように年老いた女も朝から手持ち無沙汰に気分がふたぎながら頭の中で聴き続けて、どうにか今日の一日を生きようとしている。考えてみると、この手持ち無沙汰が、人生の宝石なのだ。つまり、めったに得られない貴重なもの……
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Oct 06, 2016

モーツァルトはモロッコへ行った

モロッコの街から少し外れた大西洋に面した小さな海辺の町で2週間海をみながら過ごしました。砂と海と空と50度近い気温と…私ではなくモーツァルトのことです。 この頃は最後のピアノ協奏曲と低音の響き渡るクラリネット協奏曲K622をくり返し聴いています…四季が崩れてきているような予感がぬぐえないのですが、18もの台風に晒されたこの夏からの鈍い色の便りです…
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Sep 18, 2016

まぼろしのように

まぼろしのように猫が来る 死んでから四年が経つ スーがまだ生きていた頃 お姉ちゃんが病気だから と家の中には入らせなかった 白と黒の小型の猫 だんごになった尻尾の先を わずかに動かして 帰っていく どこにかえっていくのだろう 眼は澄んでいて優しい 短い視線の交換が言葉を言うよりずっと確実に思われる ひと声も鳴かず まるで来なかったように あらわれ 何の痕跡も残さずに 居なくなる 今朝は雨戸を開けるのが遅れたせいか 姿がない
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Aug 28, 2016

モーツァルトカレンダー 無産のパイオニア

5月にエッセイアンソロジー『モーツァルトカレンダー』を私家版で出版してから、3ヶ月が経ちますが、以来なぜモーツァルトなのかをずっと考えてきました。齢70を越えて、なぜ7,8歳の頃から耳にしているメロディーの断片がこうも強烈に私の内部に復活してきたのか? まあ、毎日のご飯のような音楽だからな、で納得しようとしましたが、そういう理屈ではどうも収まりません。今朝になって突然、「無産のパイオニア」という言葉が降りてきました。これだ!というのは、講座の夏休みに入って、長年やりかけていたモルポワの『イギリス風の午後』の追い込みに入って、巻末付録のグロッサリーを訳し終え、続いて9月からの講座のテーマ、アンドレ・ブルトン『ナジャ』を詳しくもちろん翻訳で読み込んで、これらがからまって「テラン・ヴァーグ」なる言葉が立ち上がって来、それと『イギリス風の…』のメインテーマであるルソーの『新エロイーズ』の成り行きと、これらが渦巻いて中心の渦の目のところから飛び出してきたのがこのフレーズです。そしてコレは私だという「達観」も。大げさですが、たしかにこの経過は、私にとって達観、つまり到達点なのです。いま、若いモーツアルトが父親に送った手紙の一節が思い出されます。《ぼくの財産はすべて今ぼくの頭の中にあります。》この考えはルソーの『新エロイーズ』とぴったり重なります。さらに、よく感じることですが、フランス現代詩を読んでいると、その詩人のオリジナルな言葉と思っていたものが、ほとんど必ず、他の詩人たちとの共通な言葉であるという驚きです。あれほど自我の強烈なヨーロッパの意識がなんと全てつながっている、ブルトンの言う「通底」です。「テラン・ヴァーグ」というこのあいまいな、訳しにくい言葉も詩人たちの共有財産だったのだと気付いて、安心するやら、あきれるやら、口をあんぐりの状態です。
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Aug 24, 2016

モーツァルトカレンダーで生き返ったグールド

グールドはデビュー曲と死の1年前の最後の演奏が同じゴールドベルク変奏曲で、音楽的生涯はこの二つの演奏にはさまれた25年間だったといえるだろう。その間に弾いたモーツアルトは遊びだといいたがる音楽通が居るが、そうではない。グールドはオリンピック選手のようにその瞬間に生涯を現出する。どんな小曲でも一発勝負だ。それは演奏を聴けばすぐにわかること。日本にはバッハ、バッハと持ち上げる音楽通が多すぎる。下心が見え見えで、醜い。パリの街角にグールドの演奏に耳を傾けるモーツアルトの小振りな像があったらいいのに。そうやって、この素晴しい音楽家を利用するだけで何の力添えもできなかった見栄っ張りなフランス文化のおとしまえをつけたい。私が大富豪だったらそうするだろう。この哀しきふたりの天才の魂を鎮め、音楽の魂の永遠性を記憶するために。
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Aug 12, 2016

 『モーツァルトカレンダー』とモーツァルト

昨日は今年からの新しい国民の休日「山の日」でしたが、私は山ではなく、詩の朗読会に出かけました。知らない街三軒茶屋を2時間ほど歩き回って街なかの山歩きとなりましたが、素足のサンダル履きゆえさっそく靴擦れができ、6時の開演ぎりぎりに会場に着いた頃にはとにかく靴を脱ぎたいという思いがいちばんでした。5月に出版した『モーツァルトカレンダー』を編集してくださった榎本さんの「サクラコの部屋」第2回です。前もってメールと携帯があったので、これはお客が少ないなと思って応援お礼のつもりだったのですが、どうしてどうして、YAMAHAグランドピアノがメインホストの狭いスペースに超満員というところでした。サクラコチャン、おめでとう! 彼女が創ってくれた本はなんといっても目次の見開きが端正で、はやく本文に入りたいというどきどきした気持を作り出してくれています。カニエ・ナハさんの表紙もその頭脳的でカシコイセンスをとても気に入っています。若い人に接近してと、嫌がる向きもいらっしゃるのですが、気にしない気にしない……私自身は若手の才能に応援してもらって大成功だったと思います。はつらつとして、センス抜群!何しろコノ3人、音楽大好きという共通点があるわけで。私はグールドに文句をつけられているモーツァルト専門ですが。自分のことばかり書きましたが、朗読会は本番に入る前に失礼してしまいました。どうにも足が痛くて。ごめんなさい。カニエさんもお見かけしましたが、あのなんとも少年っぽさの残る視線をちらといただいただけで、夜の街に出てしまいました。私の山の日、孤独な満たされた休日でした。
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Aug 08, 2016

モルポワの詩集”LA MATINEE A L’ANGLAISE”

和訳版を出版したいと考えています。 目下、同人誌『ユルトラ・バルズ』に分けて掲載中の訳をあと1,2号で終えて、1冊の詩集のかたちで刊行する予定です。原著者のモルポワ氏も待たれていることゆえ、著者前書きをもらって添えるつもりです。 題名についてですが、バルズには「イギリス風の午後」としていましたが、LA MATINEE の語感を保存したいので、たなかあきみつさん他の方々のご意見を伺って、『英国式のマチネ』としようかあるいは『英国式のお茶の時間』、『イギリス風ティータイム』などもありですが、ここで問題なのは、現代でマチネといえば、即、昼間の劇や音楽の興行がイメージされてしまうことで、ルソーの『新エロイーズ』中のフレーズであるこの場合の意味は、そうではなく、家庭内の親密なお茶の時間のことだということです。どうしても「家庭内の」のイメージを求めたいので、幾組かのカップルの間で交わされる本質的な会話、信頼感を基礎とする複数の会話が行われる時間がイメージできるタイトルが求められます。まだ確定までには時間がありますが、大いに悩むことと思います。
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Aug 05, 2016

山田兼士のブログ 7月4日

例によってぼんやりしていて、昨夜ようやく敬愛する山田兼士さんのブログの7月4日号に(その日はちょうど山田さんのお誕生日で)63歳の詩集読み初めとして3冊の詩集のうちの1冊に『モーツァルトカレンダー』を挙げていただけているのに氣付きました。寝しなに見つけたので、眠れなくなって困りました。よかったら「山田兼士のブログ」2016年7月42ページのうちの36ページ目をご覧になってください。書評として嬉しかったのは、「音楽エッセイ詩と呼ぶべき新しい作風も見られる」のご指摘。譜も読めない、ドイツ語も知らない私としては、超過分のお言葉です!反していやだったのは「モーツァルトを偏愛する詩人」とのネーミングです。あのー、先生、そんな私がいま自分の土俵に取り込めるかもと考えたのがモーツァルトで、他の音楽家もたくさん「偏愛」しています、でもまだ言葉にできない、モーツァルトについては再認識の出会いが70歳を超えてからあったために、ながーいじぶんの生の軌跡と重ね合わせることができると感じたということなんですけど、もちろん《なっちゃう》ほどだーいすきではあるのですが。みっともないからこの辺で止めましょう……今は《許しがたい》と批評したグールドの弾くモーツァルトに首っ丈、と言い募ればまた、めろめろでみっともないです。
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Jul 31, 2016

なにごそつかす

高見順文学振興会の川島さんにチケットをいただいて竹橋の近代美術館に「声ノマ」を見に行った。最初はあまりにも言葉の集積の甚だしさに生は記録より先行するでしょうと、多少の反感さえ覚えながらうんざりした気分で展示を巡っていったが、記録ビデオの「まいまいず井戸」のところでそれまでのわだかまりが逆転した。詩が自分のなかに緩やかに立ち上がってきたのだ。東京都羽村市にある、まるで街角のお稲荷さんのような「遺跡」を記録する詩人に全身感動を(この展示は「全身詩人」と名付けられている)、禁じ得なかった。この時点で28日、遅い梅雨明けの日にここを訪れたことが特別な事件になったのだった。この死んで久しい場所をこうもみずみずしく息を吹き返させる詩人の霊力に衝撃を受けたのだ。私はたしかに、この螺旋状の道筋を地中に向かって水を汲みに降りていく昔の人の姿を幻視し、「詩人の静かな力」はたしかに存在し、この詩人はそれを証明したいのだなと合点が行った。昭和14年、同い年のこの人が全身詩人であれば、生活にこだわり続ける鈍さそのものの老化した私は3分の1詩人だろうと哀しくなった。生と死と性の間で死にかけた虫のように毎日息をしている自分を。帰りの北の丸公園で歩く先々に落ちているはしぶとガラスのつやつやした羽を、羽元を削ってペンにしてみようと拾った。一枚拾うと、またその先に1枚落ちているのが見つかり、たちまち握る手のひらが悪魔の花束を握っているようで寒気がした。今日、日曜日送られてきた「ふらんす堂通信」で蕪村がまだ寒の内の鶯を歌った、藪の中のうぐいすの身動きを感じている、この《なにごそつかす》というフレーズもまた「永遠の全身詩人」(何度でも蘇り続ける、つまり永遠の詩)だと確信した。詩の言葉とは時間の圧倒的な経過のなかでよみがえる力。そして音楽もまたそのように。
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