May 26, 2006

精密な観察者、尾形亀之助

5月4日に亡くなった吉行理恵と、尾形亀之助の詩集を集中して読んだ。尾形の作品を読んで、はるか以前、『死人覚書き』を読みながら夜じゅうまんじりともしなかったときの記憶がよみがえってきた。尾形、原口は同系譜にあると思う。あの時代、大正から昭和に年号が変わり、14年に太平洋戦争が始まるまで、ひとりの個人の意識がどのようであったか、手に取るように分かる。このもの静かな人は人一倍肌感覚の鋭い人だった。そのゆえに、「何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。」と、一度読んだら決して忘れることのできない言葉を3番目の詩集の冒頭に書き付けたのだ。自由な個人として生きることが許されない時代に、個人を捨てることができない意識はどうやってこの世での自己の存在をたわめていけばいいのか。この人はそれを自分の身で錬金術した。非常にランボーに近さを感じてしまう。怜悧な世間の観察者、自己のそぎ落としによる焼き入れ、自己否定による自己実現しか方法がないことを悟ってのことだ。屋根の上を猫が行き、戻るのをじっと観察している詩が圧巻だ。
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May 09, 2006

奇跡は、条件を課する権利がある。

ボルヘス『砂の本』は短編集で、13の短編で構成されている。どの話も、奥深い、不思議な、恐ろしい雰囲気。なかでも「ウルリーケ」は、詩に近い散文。その中のフレーズにふと足が止まった。タイトルの文章がそれ。篠田一士訳。内容は、直接読んでもらうのが一番だろう。奇跡のような愛の話し。愛の究極の相。そして奇跡とはなんとシンプルな様子をしていることだろう。「まもなく死ぬ人は、未来が見えると考えられている。」「そして、あたしはもうじき死ぬの」ボルヘスは晩年盲目で、口述で書いたそうだ。
吉行理恵さんが亡くなった。同い年の1学年違い、ということは辻さんと同じ。確か辻さんの文章に吉行さんのことを書いたものがあったと思う。詩はみんな短いが、詩の本質というものが現れた詩。逆立ちしてもこのひとにはかなわないと思ったことがある。縁側でマリをつく詩はそれ自体詩そのもの。お人柄を知る人の話では、かなりお嬢様タイプのひとだったようだ。
ひと夏を藪に置きしが枯れはてし  かおる
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May 05, 2006

ビヤネ!

MXテレビで放映するかぎりの韓流映画はたいてい欠かしていないから、見ていて覚えた韓国語に、ビヤネとサランゲがある。スペルがわからないので、音だけで聞き違っているかもしれないが、いくつかのドラマで、別の男女の俳優さんがしゃべっていて、そう聞こえるから、これでいいのではないかと思う。隣国の言葉を知らないのは失礼で、恥ずかしいことだと思っている。だがハングルのスペルを覚えるには、年が行き過ぎてしまったようだ。今ほど韓国と日本が文化的に関心を持ち合う以前のこと、ラジオで流れる韓国語でおぼえたのは、スミダとイルボンだった。こちらはなんとも無味乾燥。ドラマでおぼえた言葉はもっとしっとりして、そのシーンも同時に思い出せるから、楽しい。ビヤネが多いのにも驚いている。ちょっとした行き違いも、例えば、恋人同士の言い争いで、ちょっと言い過ぎたと感じるとぱっとこの言葉が男女の別なく飛び出し、相手の気持ちをやさしく包む。優雅な言葉だと思う。自我の強い欧米語にかかわってきた身には、ほっとする肌触りだ。
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