Dec 21, 2014

「こえのあるいっとき」第2回無事終了しました

おかげさまで、新百合ケ丘の画廊「華沙里」での及川恒平さんとのコラボライブ「こえのあるいっとき」第2回無事終了しました。画廊のオーナー井上様はじめご協力の皆様、まことにありがとうございました。そして及川さん、プロデューサーの風祭さん、ありがとうございます。プログラムは2回のリハーサルを経て前書き込みを少し修正して作り上げられました。会の様子は写真家大石裕之氏及び及川さんのフェイスブックと、『洪水』誌主宰の池田康さんのブログ「洪水」に載っていますのでご覧ください。
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Dec 07, 2014

ライブ こえのあるいっとき――(2)

――有働薫『モーツァルトになっちゃった』出版記念
詩朗読 有働薫
ギター+歌 及川恒平
2014年12月14日(日)開場夕4時 開演4時半
ギャラリー華沙里
川崎市麻生区上麻生 1-10-6 セコム営業所2F
小田急線新百合ヶ丘駅下車南口歩5分
℡044-954-2333
チケット 2500円(お茶付)
ご予約 kohe.office@gmail.com/Facebook「及川恒平音楽情報」まで
演奏曲目:
前半
及川 Song月の魚 詩・有働薫 4’ /4’
有働 風さん!お店のひと? 1’
及川 Song月と時間 詩・有働薫 3’
有働 白炎 1’
及川 Song雨が降ったら 詩・有働薫 3’
有働 失声巨鳥 1’
及川 Songセレナード 詩・有働薫 3’
有働 契約 2’ /14’
及川
日々の死 Song 詩・及川恒平 5’
猫じゃらし Song 詩・樋口伸子 7’ /12
有働 白無地方向幕 4’
及川 白無地方向幕Song 詩・有働薫 5’ /9’
//39’
後半
有働 聖霊によりて(抄) 10’
及川(途中)平原にてSong詩・及川恒平 5’ /15’
及川 この世、花の日Song詩・及川恒平 5’ /5’
有働 モーツァルトになっちゃった 12’
及川(途中) 虹毛氈苔Song 詩・及川恒平 5’
そこにいるのかなSong 詩・及川恒平 5’ /22’
有働 テークラまたは牧場の菫 3’ /3’
//45’
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Nov 16, 2014

モーツァルト レクイエム k626 を歌う

私が歌うのではありません。『モーツァルトになっちゃった』を出版して、なお、モーツァルト、モーツァルトと繰返していると、竹早高校時代の親友のクロちゃんから「レクイエムを歌います」とチケットが送られてきた。エッ、と驚いたまま早速電話を入れた。まあ、不思議なきっかけで、レクイエムをこの秋演奏する合唱団の練習に通っていたとのこと。いよいよ、上演の日が来て…「モーツアルトの夕べ」は11月21日(金)夜7時開演、演目はドン・ジョバンニ オペラハイライトとレクイエム 死者のためのミサ曲k626 会場は渋谷区文化総合センターさくらホール、指揮久保田洋、演奏はミクロコスモス室内合唱団。クロちゃんは合唱団のアルトを歌うそうだ。そういえば、竹早の音楽選択授業で、コーリューブンゲンをもちろんアカペラでスイスイ歌っていたのがクロちゃんで、わたしはぜんぜん音が取れなくて悲しかった。テストは先生の伴奏で歌う「浜辺の歌」これも途中で先生にもういいわ、とやめさせられてしまった。やっぱり、レクイエムを歌うべきはクロちゃんなのだ。それにしても、モーツアルトのk1番から可能なかぎり聴いてきて、最後のk626は辛くてどうしても聴けないでいる。PC27番までばっちり繰り返し聴いている、それにオルガン曲もそらで歌っているのに、レクイエムは聴けないのを、さあ聴きなさい、と220年前のモーツァルトに促されているような気がする。指揮者の久保田さんも時々演奏しながら泣いてしまうとおっしゃるのだそうだ。ひとりで聴きに行くわ、風邪を引かないで。トランス状態になるというクロちゃんの明るい声を電話の向こうに聞いて、ひとの人生は誰かにこうなるように決められているのではないかという気がした。
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Oct 28, 2014

第7詩集『モーツァルトになっちゃった』(思潮社)発刊

10月25日を発刊日として『モーツァルトになっちゃった』が出来上がりました。編集は思潮社編集長高木真史氏、カバー装丁は日本画家正籐晴美氏で、軽量ですっきりした1冊に仕上がりました。かばんに入れて電車の待ち時間などでも開いてもらえそうです。タイトル詩を同人誌発表の段階で読んでくださった友人の方々の反応はさまざまでしたが、正籐氏からは「今までのあなたの詩でいちばんいい」との感想をいただき、わが意を得たりの思いです。彼女によれば、モーツァルトはなんと言っても孔雀とダリヤで、ラフを見たご主人がモーツァルトに関係がないじゃないとおっしゃったそうですが、どうしてどうして、モーツァルトという100年にひとりの天才の透明で疾走する音楽を鷲掴みで表現しきっていると感じます。中味も負けずにパワフルであるはずです。ぜひ読んでください。題材のモーツァルトについて言えば、この詩集をまとめた後も熱は引くどころか、最近は最晩年のオルガン曲ばかり聞いています。譜面も読めないのにコピーした譜面で音符を一生けんめい追っかけています。自分が死ぬことはモーツァルトを聴けなくなること、と言った人がいるそうで、そんな思いに同感しています。
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Oct 12, 2014

榎本櫻湖『空腹時にアスピリンを飲んではいけない』(七月堂刊)を読む

予告されていたので、受け取ってすぐに読み始めた。主宰の詩誌の一つに詩を寄稿させてもらったことがあるので、詩集中の作品の3篇は見覚えがある。意外にそのテーマ、フレーズなどを覚えていた。それがなくて、全篇初見だったら、途中で投げ出していたかもしれない。詩は恩恵であり悦楽であるという古典的観念は持ち出せない。つまりここには、傷ついた若い感受性がハリネズミのように毛を逆立ているからだ。果てしなく繰り出される言葉とそれらが運んでくるイメージの連鎖と絡み合いに足を掬われめまいを起こす。それらはこの感受性がもう退けきれない背水の陣の一線から繰り出す反撃だからだ。現実存在に与えられている存在権つまり、自由をこの青年はどこかで奪われた。まだ防御を知らない未経験の感受性が取った行動はすべてを捨てて退くこと。30年に満たない時間をそうやって逃走し、最後に言葉という武器で武装した。この人の言葉に内包されるのは「触ったら刺すよ!」という窮鼠の悲鳴なのだ。2012年の第1詩集を見たとき、その騒がしさにうんざりした。静かにしなさい!と叱りつけたくなった。まるでスーパーの棚の前で泣き喚いている子供を蹴飛ばしてやりたくなるのと似ていた。 そのなかで、その中に詰め込まれている言葉のパワーの質と量にはおどろかされた。 2年後のこの詩集は、第1詩集によって得た反響を忠実に拾い集めた結果で成り立っていることがわかる。そのぶん何か痛々しい。そんなにおとなしくしなくてもいいのに、という気持ちがおきる。このひとはただ泣き喚くだけでなく、怜悧に状況を判断する才能を隠していたのだということがわかる。ただのしつけの悪い子供なのではなかった。冷静な気持ちで周囲を思いやり、感動する力を身内に備えている。この力を研ぎ澄まして、生きていけると思う。それは「世界本質の全一強度」(青山昌文)である「美」を味方につける力であるから。
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Sep 17, 2014

横浜トリエンナーレ2014

昨日9月16日第7詩集『モーツァルトになっちゃった』の再校が終ってほっとした息抜きに大家利夫さんからかねてご案内をいただいていた横浜トリエンナーレ展に出かけた。夏のぶり返しで日中28度を超える熱い中を桜木町から標識を頼りに徒歩で15分、それだけでもすでにくたびれていた。会場に着くと若者が多く、Tシャツ、スニーカー、鍔つき帽子のすっきりしたファッションに目が癒された。展示の目玉は大家さんの装丁なさった巨大書籍1冊、プラスチックの台に置かれていて、階段を4段ほど上ってページをめくることができる。表紙は本格的装丁の分厚い重厚な作りになっているが中味のページは手書きのものもあって、近親感を持って読むことが(制限時間3分なので読み込むのは無理)できる。普段机の上でしている読書を、規模を拡大して読む、読みを拡大してなぞる、という雰囲気。韓国語やアラビア語のページもある。横書きの女性の詩が親しみやすく、楽しい経験だった。11月3日までの会期を終えた後、燃やされるのだそうだ。MoeNaiKoToBa というタイトルにもかかわらず。 第2会場のビデオ作品が興味深かった。 海岸に漂着した巨大な倒木をじっと写し続けたもの。根っこの空洞にやせこけた犬が忍び込んでいる。東アジアの天然の海にひたひたと押し寄せている地球破壊の足跡。何の文明の恩恵もうけていない原住民がそれらの漂流物を取り除こうと取り付いている。やせこけて汚れた裸体。いつもからだが濡れ、マイナスだけを受け続けている。 日本の都市の表面的な小奇麗さがエゴイスティックに思われる。海だけが審判者だ。「世界の中心には忘却の海がある」が今年度のテーマ。
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Sep 01, 2014

幻の都市の予感

PC27番を聞いているうちに、ランボーの『イリュミナシヨン』に幻視されている様々な風景が浮かんできた。海辺にサーカスの一座が休んでいて、白い服の子どもたちが散らばっているのが見えたり、巨大な歯車のようにギーギーとかみ合い回転する都市構造物の移動。アルプスの山のあいだにおかれたグランドピアノを演奏する伯爵夫人。時を打たぬ大聖堂の丸時計。薔薇の茂みに隠れた死んだ女の子。空にかかる鉄の橋や光り輝く真昼間の都市,明け方に樅の木の間から見える真っ白な滝。未来に出現するはずの幻だ。大災害の後、すべてが瓦礫と化し、生き残った人間たちがシャベルでまた働き出す。そうすることが生き物が生きていくことなのだから。あらかたが死に、少数が生き残る。でもそれも地球がカラカラと回る不毛の岩石となるまでの猶予の時間に過ぎない。その時間はこの音楽のように疾走し、明るい。
モーツアルトが5歳の頃からほとんど一生涯、馬車旅行を繰り返し、馬たちに曳かれて疾走しながら頭の中を流れて行った音楽と、ランボーが20歳になる前に様々な自己崩壊の果てに幻視した風景とが重なり合う。ブリッテンの歌曲、『イリュミナシオン』をボストリッジのテノールで聴く。YouTubeでライブも見つかった。きわめて神経質だ。それも悪くはないが、わたしはPC27の軽やかな透明感のほうがこの詩集に似合っていると思うのだが。
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Aug 29, 2014

生の肖像

この秋に出版予定の7番目の詩集『モーツァルトになっちゃった』の表紙をお願いしている正籐晴美さんと、どの肖像画が一番本物に近いのか、真のモーツァルトを感じさせる肖像はどれかを電話で話し合った。モーツァルトの肖像画は数え切れないほどあり、YouTubeでモーツァルトの曲を聴くと動画にほんとうにおさない頃から最晩年のものまで、そして後世の画家たちによって様々に描かれているものまでたくさん掲載されており、きわめてファッショナブルなものやデザイン化されたものから、あまり気の入っていないどうかと思うようなものまであるが、結論として1789年の日付けを持つドレスデンの女性画家ドリス・ストックによる真横向きのペン画が一番近いだろうということになった。小林秀雄が絶賛している義兄のランゲによる未完の、ややうつむいた横顔の油絵(描かれなかったがピアノを弾いている)に雰囲気が共通している。晴美さんによれば、目がパッチリしているし、アゴも二重なので、筋骨たくましいというよりポッチャリした印象、の若い男である。このデッサンでも一番印象に残るのは横向きだがパッチリした左目、大きくてやや出目金気味で輝いている。優しい眼である。モーツァルト耳と呼ばれるやや奇形の耳は髪に隠れていて見えない。さまざまな伝記によると、容姿は160センチちょっとの小柄で、けっして大人物のようには見えなかったとあるが、芸術家としての風格が現れる前に生涯を閉じてしまったのだ。金髪で青い眼だった。おしゃべりで移り気で、ダンスやビリヤードにすぐに飛びつく浮気者という証言が多い。だが、小林秀雄も言うとおり、それらは内なる音楽の奔流にじっと眼を凝らさざるを得ないその気配をカムフラージュする振る舞いだった。それほど、日常生活から浮いて上の空で内部宇宙に釘付けにされていたのだ。5つの頃から馬車でヨーロッパ中を駆け回っていたのだから、定着的な社会人と比較はできない。ズレていてあたりまえだろう。ぼくは字が下手だと父に手紙で訴えているが、どうして、どうして、これも奔流のように鳴り響く内心の声をほとばしらせつつ筆を走らせている。彼は手紙で自分を教育した。もう一枚、最近見つけたのは、ザルツブルグの父がボローニャの音楽学者の神父に送った21歳のモーツアルトの肖像で、これは驚くべき印象だ。少しも若々しくない。日本人なら50歳手前ぐらいか、やや坊さんくさい、だが両の眼の異様な光が心に引っかかる。ほかを隠して目だけ見ると、その視線の強さにこちらがたじろぐ。噂のごとく大きな鼻だが唇は品よく結ばれている。その瞳は青だろうが、何かを一心に見つめている。こちらを向いているが、視線はこちらにはなく、自分の目の奥を思いつめて見つめているようだ。20歳そこそこですでにこんな眼をしていたのだ。ヴェルレーヌの妻がたずねてきた少年ランボーをはじめてみた時、その青い透明な眼の圧倒的な光に衝撃を受けたというが、21歳のモーツァルトもそんな眼をしていたに違いない。この世の眼ではない。
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Aug 28, 2014

黄金の純潔

読書中にモーツァルトの旋律について、「黄金の純潔」とニーチェが呼んでいたとの条りにぶつかって、なるほど、と感心した。まじりけのなさをそう名付けたのだろう。私はこの感触を「存在のエクスタシー」(存在の夢中=十全)と(こんどの詩集で)呼んでいる。つまり、夾雑物のない高速疾走のことを指している。本はランボーについてのもので、ランボーもまた夾雑物の混じらない全速疾走者である点で、共通性がある。このことについても詩集でランボーとモーツァルトを対談させた。だが今書きたいのは、そのことではなくて、ピアノコンチェルト27番についてだ。1年以上前からモーツァルトを聴きこんでいて、わたしのナンバーワンはこの曲になった。次はほとんど同じランクで合唱曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」である。たぶんこの2曲への思い入れは一生涯動かないだろう。この頃、27番はモーツァルトの自意識が最も強く現前する曲だと思うようになった。そしてその自意識には、常に馬車の疾走がからだに与える振動が作用していると推測する。強いメロディーラインと高速疾走のリズムとの交差が多くのモーツァルトの音楽を構成している。モーツァルトにおいては肉体についての意識が、晩年(といっても普通人ならまだ青年)に向かうにつれて強くなる。祈りの曲で<corpus>を強く意識するのも他例がない。普通なら<からだを超えて心を>となるところを、モーツァルトでは<まことのおからだ>となるのだから、変っている。その理由は<黄金の純潔>にあるだろう。教会で定められた観念からずり落ちて、他者の介入しない魂と直結しているところが、モーツァルトの純潔性なのだ。
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Aug 22, 2014

モーツァルト クラリネット協奏曲k622

『魔笛』k620と未完の『レクイエム』k626のあいだに挟まる、死のほぼ2ヶ月前の10月初めの完成。そんなことは微塵もにおわせぬふくよかで成熟した、それでいて軽妙で聡明な音楽。私の大好きなクラリネット五重奏曲k581が清新で透明感に満ちているのに比べると、大人の人間の息遣いが感じられる。柔らかな立体感。モーツァルトの音楽の到達点、ということは、ランドンに言わせれば、《かつて誰も到達できなかったヨーロッパ文明の頂点》に位置する音楽である。YouTubeの動画で聴く。クラリネットといえばザビーネ・マイヤーをまず思い、その動画もあるのだが、若い女性奏者シャロン・カムとプラーグのフィルハーモニック・オーケストラ、指揮マンフレッド・ホネックで聴く。素直で清潔な音がよい。モーツァルトは優れた演奏者に出会うたびに、すばらしい名曲を生み出していった音楽家で、このきょくもそうだがその最高の例が、妻が湯治に出かけていた温泉場の教会合唱指揮者のために作曲したたった46小節しかない傑作『アヴェ・ヴェルム・コルプス』だろう。最初は漠然とした印象だが、くりかえし聴いているうちに涙が出てくる。モーツァルトの魂をすぐそばで感じ取る。モーツアルトの時空超越性。クラリネット奏者アントン・シュタードラーはバセットシステムを開発した名手。彼につきっきりでクラリネットの奏法を工夫したらしい。がその工夫の跡など微塵もなく(死の影が微塵もないように)自然な優雅さに満ちているのがおどろき。30分間の至福。当分モーツアルトの音楽から出られそうもない。
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Aug 02, 2014

カール・ベームの交響曲39番K543

きっかけは何だったろうか。
YouTube サーフィンをしていて、フランスの若いソプラノジュリー・フッシュのハ短調ミサ曲の「聖霊によりて」をローレル指揮で聴いてからだったらしい。柔らかな初々しさに魅せられて、繰り返し、いやになるほど聴いた。それからつかまったらしい。ちょうど榎本櫻湖さんから、主宰する雑誌に詩を書かないかと誘われていたので、「聖霊によりて」というタイトルで書き始めた。それから、水かさの増した川に運ばれるように流されて…だが呼吸が止まるようなことはなかったのが不幸中の幸いだった。 いまは、39番交響曲のアダジオのびっくりするように叙情的なメロディーラインに涙が止まらないほど、病気中、というわけ。書店で中公新書のランドン版「モーツァルト」を見つけて、読みふけっている。その中で慰めてくれるフレーズに出会ったのがよかった。
《モーツァルトの音楽はいかなる人間によっても到達することのできなかった西洋文明の頂点を示す》
私の病いもちゃんと原因があったわけだ。物心付いてこの方、遥か見晴かしていた明かりの光源をようやく見つけた、南極探検家が苦難の果てに極点にたどり着いたような。わたしはいまゲラ待ち中の詩集のメイン作品を今日また書き直した。
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Jul 06, 2014

ライブ「こえのあるいっとき」

2014年7月19日(土)
開場夕方4時 開演夕方4時半
ギャラリー華沙里(カサリ)小田急線新百合ヶ丘駅下車徒歩5分 昭和音大斜向い セコム営業所上2階 ℡044-954-2333
2,500円(お茶付き)
及川恒平=歌とギター + 有働薫=朗読

及川さんとのおよそ1時間半のコラボライブです
梅雨明け間近かの夕方のひとときをご一緒にどうぞ!
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Jul 02, 2014

七夕飾りはスーパーで

毎夕出かけていくスーパーのレジ脇に笹竹が立って、テーブルに短冊とサインペンが用意してある。願いを書いて自分でこの笹に下げてくださという訳だ。これがけっこう人気で、行くたびに短冊が増えている。昨日は日中3時ごろ行ったが、もう下げる枝が見つからないほどの満艦飾になっていてびっくりした。女の子がうつむいてしきりにペンを動かしている。若い女の子が多いようだ。ちょっと読ませてもらうと、「先生になりたい」「水泳がうまくなりたい」など健全なものから「がんばりますからゆるしてください」など痛々しいのも。 7日までにはまだ間があるから、スーパー側はもう一本笹を増やさなければ? 店へのアンケートなどとはあて先が天の川と《ゆるきゃら》だから書きやすいのと、頭の中に何時もあることだから、外に表現する機会をすっと受け取れるのかも。それに漠然とした願いだから、お遊び感覚で、生きていれば誰だって何か望みはあるでしょう。 人の出払った草ぼうぼうの空き地と化した庭隅に誰にも読まれぬタナバタ飾りをしても空しいよな、と納得してわたしも一枚笹にくくりました。後で気がついたらバス停前の花屋にも同じような仕掛けがしてあった。
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Jun 19, 2014

「テークラまたは牧場の菫」

ベーズレ、ぼくの従妹(いとこ)ちゃん
このごろになってきみのことをよく思い出します
あれから、ぼくはカトマンズのテロリストのように
爆走してきました
何にむかって?
平たく言えば死にむかって
そう、テロリストの生きがいは抑圧者の破壊
ぼくはそんな直接的な戦士ではない
ぼくのからだは華奢だし
腕力だって貧弱
暴力沙汰はいつも負けだった
ぼくの爆死は
肥沃なぼくの楽想を
ぼくがいなくなってもすぐそばで
ぼくがピアノで弾いているのが聞こえるようにするため
ね、ベーズレ、いとこちゃん
きみはぼくを普通の男にしてくれた
ぼくが生まれつき節をつけて歌えないのにきみは気付いていたね?
父さんや後の時代の人のいうことなど
何も気にしなくていい
ぼくの「すみれ」はきみのための歌です
とりわけ最後の2行は
ゲーテ氏の詩想が切れたあとにぼくがおぎなったもの
いずれぼくはぼくたちが若い頃きみへ送った手紙そっくりな最後の協奏曲を
聴衆の前でこれを最後に演奏することになるでしょう
歌とはちがう、ぼくはきみをちゃんと見つけた
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Jun 01, 2014

ピエール・ルイス『ビリティスの歌』沓掛良彦訳を読む

ルイスの散文詩集『ビリティスの歌』を知っている人は多いが、その全貌を見晴かせている人はどれほどだろう。私も例にもれず、水声社から2003年に刊行されたこの分厚い全訳詩集に今回向き合ってはじめてその全体を知ることができた。私の認識は三部からなるこの詩集の「パンフィリーの牧歌」題された第一部だけについてのものだったことがわかった。その理由は私のルイス把握はドビュッシーの歌曲「ビリチスの3つの歌」によるものだったからだ。この歌曲の歌詞になっている3つの詩はすべてこの第1部の中に収められたもので、ビリティスという紀元前6世紀に生きていたとされる美少女の恋の話なので、この全詩に接すると、ほんのとばくちだったことが判明。沓掛氏の解説に依ればギリシャ版『好色一代女』に比すべき艶文の世界を展開する大規模な詩世界なのだ。サッフォーの時代のレスビアンの世界を完璧なフィクションで構成した、多分ボードレールの『悪の華』を視野に含みつつ読まれるべき大著だという、目から鱗の落ちる思いに陥っている。文学の深淵が一筋縄では捉えきれない深みを秘めている驚きである。
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May 12, 2014

ガラスの皿にパンジーを

「ガラスの皿にパンジーを」

ベランダの素焼のポットにパンジーが凍えている
37階の風が窓ガラスに当たって
ゆっくり運河のほうへ降りていく
それから海のほうへ 雲にむかって
冬晴れの 希薄な硬い空気
深呼吸には少し足りない
コンクリートの縁石に朝の水遣りのしみ
あまり乾き過ぎてもと
晴天をたしかめて鶴口如雨露で注いだ
パンジーには必要なかったかもしれない

ウォーターフロント 海抜ゼロメートルと
呼ばれた地域に岩盤に打ち込むたわみ性建築鋼材によって
高層ビルが林立する
夜の照明は宇宙都市かと思わせる幻想都市を出現させた

4月に入って
凍ったパンジーの株が
生気をとりもどした
伸びた葉を掻き分けて蕾がふくらみ
やがていっせいに笑い出すように同じ向きで開花する

あらゆる種類の蝶が孵化し
羽ばたきはじめる
エレベーターで地上に降り戸毎に植え込まれたパンジーを見つけるたびに
いちいち言葉をかけずにはいられない――おはよう、モーツァルト……
季節の猛りにざわめく花たち
ふんだんであってもけっして過剰ではない
色という色をさざめかせる> パンジーはモーツァルトの音楽の生れ変りなのですよ

子どもの頃家の玄関の壁に
パンジーを描いた油絵があった
近所の喫茶店の主人が模写した窓辺のパンジーで
「遊蝶花」岡鹿之助による
と年末の大掃除で下に降ろされた絵の
裏板のほこりのあいだに読めた
数個の花は現実より大きく
ひとの顔のようにこちらをまっすぐに向いていた

花は冬のにおいがした
中心に向かって数本の髭の走る黄色の花弁は
《望月をとおあわせたる》
めくるめく明るさで輝き

ガラスの皿に摘んだパンジーを盛って
夕食後のテーブルに置くと
皿は王宮の音楽室となり
シャンデリアに灯が入る
とりどりの衣装の王族たちに
左右の耳の上に大きな巻き毛をのせた子どものモーツァルトが
狐の目のようにつりあがった視線をちらと投げて
可愛いいパッセージを鳴らしはじめる

花弁は5枚、正面の花びらはエプロンのようにいちばん大きく丸い。その両脇に少し小型の2枚、それらの3枚が組み合わさった後ろに色の濃い(たいていは濃い紫)花びら2枚。これら5枚が花芯を軸にして1花をなす。後ろの2枚は、スミレならウサギの耳のようにとがって立っているのだが、パンジーは丸っこく少し開き気味におとなしく広がる。前の3枚の花びらの中心には髭が描かれていることが多く、これが1つの花を人間の顔に似せている。原種のスミレは軸が細く花が大きく頭でっかち、パンジーの軸は適当に太く逞しく農婦のような風情。大衆性と安定感。故地のスミレがうつむいて咲くように、パンジーも花開くとやがて少しうつむき加減に日なたを向く。

やがて春が猛る。パンジーは後ろの2枚の花弁から縁を丸め始める。つぎに両側の2枚が手のひらを合わせるようにお互いに向って巻いていき、一番最後にエプロンのような中心の花弁が遅れを取り戻すようにしかしいちばん大胆に両側から丸まっていく。そして花は蕾の時代を憧れる様子でその形に似せてしぼむ。

子どものモーツアルトがひとりの成人の芸術家として真の姿で認められるのは容易ではなかった
ピアノコンチェルト第21番ハ長調k467第1楽章 いのちは行進曲風に
そしてエルヴィラ・マディガンと呼ばれる次の楽章で若いふたりが死ぬ
眼の前を舞っていた蝶が空中で止まる瞬間

長調と短調が 行進曲と嘆きのアリアが 生きる喜びと断念が
風に翻る木の葉のように
表と裏に
きらきら光る

喜び 哀しみ
光 陰
日向 日陰
あこがれ あきらめ
混濁 清澄
激しく移り変り
少しもじっとしていない
いのちは時限にさらされた1枚の木の葉
風にそよぎ
気もそぞろに
ふざけん坊で
冗談好きな
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May 09, 2014

高橋睦郎『和音羅読』を読む

大連休中に読み、まだ読み終えられず、あと少しを残している。決してとっつきやすくも、読みやすくもない、忍耐を要する読書である。その理由は? 事情が大変入り組んでいるので、敬して遠ざかる、という読書人の、自分も含めた態度に原因があると思う。わが国で言えば漢籍の歴史を事細かに仕分けすることは時代ごとの読書人によってコツコツとなされてき、それが周知の知的財産となって共有されている。そういった作業が外国文学にこれほど依って立っていながら聖書を含むラテン文学に対しては果たされてこなかった。当面の、時代と作家を追いかけるのに手一杯で、その依って立つ根元の部分にきっぱりと鍬を入れる人が見当たらなかったことに依るだろう。地道な真に聡明な知性と感性に恵まれた人でなければ、荷が重すぎる、取り掛かっても跳ね飛ばされる。1人の作家に対してでさえそうなのだから、こんな磐根掘りのしんどい仕事はなるべく避けて通りたい。この欠落に気付いたのが、ある編集者との酒席であったと、あとがきにある。朝日新聞の冊子「一冊の本」に43回にわたって連載されたものが基本になっているという。時代を画す労作であり、意外性のある適任である。読むのは辛いがこの機会を与えられて幸運である(大変に遅まきなことだが)。まずはあとがきのアベラールとエロイーズのエピソードから読み始めるのが賢いだろう、私はそうした。
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Apr 06, 2014

小石川植物園

4月4日(金)お花見に出かけました。日中は晴れていたのですが、夕方強いにわか雨がありました。幸い、4時に植物園が閉って、近くのコーヒー店で休んでいましたので、ほとんど雨に濡れずに花見を終えることができました。頭の中にはハ短調ミサのソプラノアリアが鳴りっぱなし。家に帰ってから、そういえば関口台町小学校の最初の遠足が小石川植物園だったと、ふっと思い出しました。電車などに乗らずに学校から列を作って歩いて行ったのでした。7,8歳の頃ですから半世紀以上前です。人の存在は流れていくけど、土地や草木はとどまる、のでしょうか。地球がめぐってまたいのちの息吹がめぐってくる、ずっとそれを繰り返していく、それが世界なのでしょうか?そうと知ればそれでいいです。
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Mar 27, 2014

『海と毒薬』ようやく読了

いくども途中まで読んで先へ進めなかった。地元町田文学館の遠藤周作展示が終って、久しぶりにもう一度挑戦した。家でひとりで読むのはつらく、薄い文庫本なのでかばんに持って出て、駅のベンチや車中で断片的に読むという防御策を講じた。きのう最後のページまで読むのに、帰りの電車の乗換駅をやり過ごし、めったに使わないおよそ遠回りな順路をとることになり、ひどく疲れた。だが読み終えてよかったとおもう。そしていままで読んでいなかったことを悔いた。大変しつこい作家だ。しつこくて強い。明晰で容量が大きい。鋭いが細かくはない。でだしの部分の意図がつかめず強い違和感におびやかされた。作家の業、作家であることの苛烈さを思う。できればこんなテーマの中で生きていきたくはない。一言で言えば、日本人の自意識をひとりで背負ってしまった人格といえばいいだろうか。子供の頃、周囲の大人の意図でクリスチャンになった。そのことを青春時代にずっと意識の上に担い、いくども捨てたいと思った。フランス文学を学ぶ中で、自分のからだにあわない洋服のようなこの信仰を、脱ぎ捨てるのではなく、少しずつ仕立て直して自分の身に合うようにして着続けて生きていこうと決心した。ここに遠藤周作という作家の核心がある。この忍耐力としつこさ、うつわの大きさと誠実さがある。
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Mar 20, 2014

灰皿町にも桜が咲いて

きのう池袋に出かけて用事を済まし、歩いているとヤマハ楽器の店があった。女の子がふたりで入っていく後につられて店内に入り、ええと、何がいるんだっけ?とりあえず2階に上がると楽譜の棚が目の前なので、CDで今気に入っている曲の楽譜を探してみようと。 ミサハ短調は幾種類かあったが、分厚くて5千円、3千円と手が出ない。アリアだけの楽譜があればいいのに。 いろいろみているうちにクラリネット5重奏曲の薄い小型の楽譜が700円(全音出版)、これにしよう。さっきユーチューブを聞きながら楽譜の追っかけをしてみたらこれがすごく楽しい。センスのいいフレンチを食べているような、モーツアルトになっちゃったみたいな! 泉の水が湧き出すように、春が湧き出して来る。今夜は冬返りだけど、日向ぼっこの猫があくびをしている。死んだ猫の写真におはようと挨拶している男がいる。
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Mar 18, 2014

春一番、本日吹いています

おそかったですね。 3月にはいってから、冷たい風に縮みあがって暮らしましたが、いま生ぬるい灰色の風が吹きまくっています。建物を揺らす音。風の唸り。 泣きたいのに涙が来ないもどかしさのような気分。消防自動車のサイレンも混じって、本格的な春の入り口です。 これまでに書いたもの、全部捨てたと言う人の、哀しさ。これからは捨てられない、どこかに残ってしまう悔しさに悩むのかもしれません。忘れる力。忘れるために好きなこと、心に掛かることを身近に置きます。昔の思い込みを抜け出せた時の安堵。でも夢中だったことは許してください、可哀想にと言って。 空しいときはユーチューブで音楽を「見る」楽しみを覚えたので、気が楽です。時間も足りないくらい。 いま、お気に入りはモーツアルトのミサ曲ハ短調の奇跡的なソプラノアリア「聖霊によりて」です。
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Feb 28, 2014

2月最終日

新年に入ってから、うかうかと時を過した。良い日、悪い日の仕分けにも当てはまらぬ、漠然とした、物理的な時の流れに流されて、ふと打ち上げられてみれば、3月、今年の春が目前である。唯一の取り柄と言えば、意識に錘がぶら下がったような、沈静感の中に沈んでいたというところだろうか。そして、これでいいというささやきのような声が聞える。この声、これからもずっと聞えて欲しい、時の節々に、1月21日、いよいよ別れの来た親愛なる老猫スーの鳴き声として。
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Jan 14, 2014

2013年活動記録

2013年活動リスト 昨年は魅力的な展覧会が多く、せっせと足を運びましたので、その記録も一緒に書いておきます: 1月3日(木)シャルダン展 丸の内三菱一号館美術館見る 1月22日(火)Voix des Poetes No24 ギャラリー華 2月15日(金)王ぎ之展 上野東京国立博物館 蘭亭記序見る 4月1日 『交野が原』74号 詩「青葉放課後」発表 4月20日 『ルピュール』16号 詩「月と時間」 エッセイ愛詩添想7 ド・ヴィオー「クロリスに」 4月25日(木)Voix des Poetes No25 駒込東京バプティスト教会 5月10日(金)詩「東京プリンス」ウエブサイト詩客発表  5月21日(火)花椿フェイスブック解説に伴うアカウントに「茗荷の港」の3行が抜粋掲載 5月21日下北沢 寺本ゆきじ絵画展 5月24日(金)私の好きな詩人98号 エッセイ「ヴェルレーヌ=渋沢孝輔 白い月」ウエブサイト詩客 同5月24日 フランシス・ベーコン展 竹橋近代美術館見る 5月29日(水)ラファエロ展 上野西洋美術館 見る 6月7日(金)Voix des Poetes No26 マルク・コベールの詩と小説 6月13日(木)オディロン・ルドン展 新宿東郷青児美術館見る 7月15日(土)『ユルトラバルズ』21号 詩「サヴィニオ――まぼろしのオペラ」翻訳「イギリス風の午後」発表 8月12日(月) Voix des Poetes No27(最終回) 「サヴィニオ――まぼろしのオペラ」他 於イスパニア 8月24日(土)マルク・コベール『骨の列島』発行 洪水企画刊 300部 8月24日 『詩と思想』2013年9月号「医師の視力、詩人の視線――死と詩を問い続ける詩人、谷口謙」A4 19枚 9月6日 恵比寿日仏会館 日仏文化シンポジウム講演 マルク・コベール「お菊さんは超えられたか」 9月7日(土)於渋谷中華料理店「アスター」 コベール・池田・有働3人で昼食会談 10月14日(月)クロコダイル朗読会 「ジャンヌの涙」、「サヴィニオ――まぼろしのオペラ」朗読 於渋谷ライブハウス クロコダイル 10月20日(日)朱夏祭にて講演「余白句会とわたしそしてフランス現代詩のいくつかの短い詩」1時間半 於相原ソレイユさがみ 10月20日 『ルピュール』17号 詩「契約」、エッセイ愛詩添想8 J-Cバッハ「ファルナスペのアリア」発表  11月23日 『現代詩手帖』12月号書評 「ほがらかさのばくれつだん、激情を生き切る詩」田中清光『夕暮れの地球から』」 11月29日(金)ターナー展 上野東京都美術館見る 12月3日(火)第31回花椿賞贈賞式出席受賞者藤原安紀子『ア ナザ ミミクリ』 12月11日(水)第38回土日会展 正藤晴美 「栖(すみか)」日本画 178x225cm見る 12月27日(金)ギュスタ-ブ・カイユボット展 東京駅八重洲口サントリー美術館見る
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Jan 01, 2014

新年おめでとうございます

だんだん新旧の区切りがあいまいになってきていますが、さあ新年だぞと心をふるいたたせます。12月は何かと忙しく、1年間のまとめをせずに過ぎてしまいました。いずれまとめておきたいと思います。 今年は思潮社現代詩文庫にこれまでの6冊の詩集から選集として1冊を出版できると思います。それに全力を尽くす予定です。 うろアンを読んで、灰皿町の友人たちの様子が目の前に浮かんで心がうるおいます。ヤッパリ詩はいいなと思います。
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