Aug 28, 2014

黄金の純潔

読書中にモーツァルトの旋律について、「黄金の純潔」とニーチェが呼んでいたとの条りにぶつかって、なるほど、と感心した。まじりけのなさをそう名付けたのだろう。私はこの感触を「存在のエクスタシー」(存在の夢中=十全)と(こんどの詩集で)呼んでいる。つまり、夾雑物のない高速疾走のことを指している。本はランボーについてのもので、ランボーもまた夾雑物の混じらない全速疾走者である点で、共通性がある。このことについても詩集でランボーとモーツァルトを対談させた。だが今書きたいのは、そのことではなくて、ピアノコンチェルト27番についてだ。1年以上前からモーツァルトを聴きこんでいて、わたしのナンバーワンはこの曲になった。次はほとんど同じランクで合唱曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」である。たぶんこの2曲への思い入れは一生涯動かないだろう。この頃、27番はモーツァルトの自意識が最も強く現前する曲だと思うようになった。そしてその自意識には、常に馬車の疾走がからだに与える振動が作用していると推測する。強いメロディーラインと高速疾走のリズムとの交差が多くのモーツァルトの音楽を構成している。モーツァルトにおいては肉体についての意識が、晩年(といっても普通人ならまだ青年)に向かうにつれて強くなる。祈りの曲で<corpus>を強く意識するのも他例がない。普通なら<からだを超えて心を>となるところを、モーツァルトでは<まことのおからだ>となるのだから、変っている。その理由は<黄金の純潔>にあるだろう。教会で定められた観念からずり落ちて、他者の介入しない魂と直結しているところが、モーツァルトの純潔性なのだ。
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