Jul 31, 2016

なにごそつかす

高見順文学振興会の川島さんにチケットをいただいて竹橋の近代美術館に「声ノマ」を見に行った。最初はあまりにも言葉の集積の甚だしさに生は記録より先行するでしょうと、多少の反感さえ覚えながらうんざりした気分で展示を巡っていったが、記録ビデオの「まいまいず井戸」のところでそれまでのわだかまりが逆転した。詩が自分のなかに緩やかに立ち上がってきたのだ。東京都羽村市にある、まるで街角のお稲荷さんのような「遺跡」を記録する詩人に全身感動を(この展示は「全身詩人」と名付けられている)、禁じ得なかった。この時点で28日、遅い梅雨明けの日にここを訪れたことが特別な事件になったのだった。この死んで久しい場所をこうもみずみずしく息を吹き返させる詩人の霊力に衝撃を受けたのだ。私はたしかに、この螺旋状の道筋を地中に向かって水を汲みに降りていく昔の人の姿を幻視し、「詩人の静かな力」はたしかに存在し、この詩人はそれを証明したいのだなと合点が行った。昭和14年、同い年のこの人が全身詩人であれば、生活にこだわり続ける鈍さそのものの老化した私は3分の1詩人だろうと哀しくなった。生と死と性の間で死にかけた虫のように毎日息をしている自分を。帰りの北の丸公園で歩く先々に落ちているはしぶとガラスのつやつやした羽を、羽元を削ってペンにしてみようと拾った。一枚拾うと、またその先に1枚落ちているのが見つかり、たちまち握る手のひらが悪魔の花束を握っているようで寒気がした。今日、日曜日送られてきた「ふらんす堂通信」で蕪村がまだ寒の内の鶯を歌った、藪の中のうぐいすの身動きを感じている、この《なにごそつかす》というフレーズもまた「永遠の全身詩人」(何度でも蘇り続ける、つまり永遠の詩)だと確信した。詩の言葉とは時間の圧倒的な経過のなかでよみがえる力。そして音楽もまたそのように。
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Jul 30, 2016

モーツァルトを否定するグールド

多くも少なくもなく
ぱちっと決まっている
まるで満月のように
満たされて
生きることはこのようでありたい
このようでありえる

グールドが最も愛した「ゴールドベルク変奏曲」
モーツァルトを許しがたいと言ったグールドは
敬愛するバッハの曲のうち最もモーツァルト的な
この変奏曲を死の直前に全身全霊を賭けて弾ききった
(弾き終わったときのぐったりと魂の抜けた表情)
グールドがバッハの中の最もモーツァルト的な
音楽を自分のものと感じ取っていた証し

ある伯爵付きの若い音楽家が
伯爵の眠れない夜々のために心をこめて弾いた
(若い彼にはかなり難しかった)
優しくしみじみとしたアリアと30のバリエーション
生きていくいのちの労りに満ちた音楽
山あいの岩清水が微かな水音を立ててさいしょに流れはじめる
瑞々しいいのちが生れてくる瞬間

グールドがゴールドベルクになり
バッハが伯爵になり
ひとりひとりの仕切りが取れて渾然と溶けあって流れ出した
永遠の音楽

そしてそれは風雲児モーツァルトへの
時を超えた心遣い
モーツァルトを嫌いなのではない
もっと激しい 許しがたいのだと

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Jul 25, 2016

過去の言葉を捜さずに、今の言葉を作ろう

70代も後半に入ると、人の名前が出てこない。自分だけに限ったことではなく、同世代の友人たちも同じような現象を示すのだから、孤立感はない。家に篭って机に向かっている時間が多いので、対話が不足していると、やや危険をおぼえるが、対話を求めて街に出かけていくのも面倒くさい。一人でいれば充分充実しているのだから。26歳ほど驚異的に生きたスーが死んで2年半、話しかける相手のお代わり君を、残された当初は欲しいと思ったが、今はさまざまなことを考えると、もうひとりで良いと決めた。あれ以上の友は見つかるまいと。その代わり、時々電話できる相手が戻ってきたので、今の自分のキャパにちょうどいい友を見つけたといえる。そして、もうでて来たがらない過去の名前を探すより、今の自分を軸にしたネーミングで語る方がずっと効率が良いと思い当たった。ほらほら、あれあれ、は止めよう。終焉前のワードメイキング、これってマラルメが試みていたことじゃないか?いま講座のためにマラルメを勉強しています。好感、好漢、健気で純なところがまったく日本人好み。ルネ・シャールと真反対で、二十歳になったとき兵役検査さえ落第するほどの貧弱な肉体の持ち主、とても「国家防衛」力にはなれない、だが時々いるよね、貧弱な肉体の器に強靭な精神を湛えている人間が。
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Jul 19, 2016

「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」6月26日

何ごとにもぼんやりで、昨日やっと谷内さんがご自身のブログで取り上げてくださっているのに氣付きました。検索がけっこう大変なので(氏のブログを先月26日まで繰って行くのが)、以下にコピーさせていただきます:
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) 日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。有働薫『モーツァルトカレンダー』 2016-06-26 10:47:20 | 詩集有働薫『モーツァルトカレンダー』(arxhaeopteryx、2016年05月20日発行)  有働薫『モーツァルトカレンダー』はモーツァルトの曲(タイトル)と詩を組み合わせたもの。私は音楽をめったに聞かないので、有働が紹介している曲がどのようなものか知らない。だから、感想は、有働の意図からかけ離れたものになるが、詩を読んで感じたことだけを書く。  「岩たばこの栽培」。その途中の部分。 正午の鐘が鳴った はじめいくつかは一つずつ鳴り やがて連続して激しく鳴り はげしくしばらく鳴りつづけ やがて低く 遠ざかるように消えていった  ここがとてもおもしろいと思った。  「はじめ」「激しく」「はげしく」「しばらく」ということばが鐘の音のように似ているけれど違う感じと重なる。同じ音なのか。違う音なのか。音痴の私には区別がつかないが、鐘が鳴り響くとき、その音と音とのぶつかりあいが、ここに再現されていると感じた。「は」の音が「濁音」もふくめて鳴り響く。」げ」「く」「く」と「か行(が行)」も響きあう。  これに、「鳴った」「鳴り」「激しく鳴り」「鳴りつづけた」。「鳴る」の繰り返し、「な」の音が割り込んできて、「は」「か行」の音を散らばらせる感じがする。  にぎやかで、とても楽しい。  そのあとの、 日差しが強い  セーヌ川という名前はね、ラテン語のSequanaつまり地質学でジュラ系セ  カニア階の意味、ローマ人がつけたんだね 連れがあるつもりになる  と展開する。「セーヌ川云々」は何が書いてあるのか、実は、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それが効果的。まったく新しい音として響いてくる。「意味」はあるのかもしれないが、「意味」のない「音」そのものになって聞こえてくる。その音のなかには、Sequanaという「読めない」音がある。何これ? 読めないから、聞こえない。  でも、これって、こういう感じって、鐘の音に似ている。  全部聞こえているつもり。でも、そこには聞こえない音がある。鳴っているのはわかるが、それを自分で再現できない音。その「不可能性」が鳴っている。「自分」とは「無関係/無縁」のものが、そこにあって、それが「世界」を華やかにしている。「無意味」をきらきらとばらまいている。  で、この「聞こえない/無意味」というのは、もしかすると、「他人」だね。自分とは完全に断絶した存在。  「断絶している」「他人である」。でも、だからこそ、「接続」したい。「接触したい」。繋がりたい。「断絶した/他人」を「私」につなぎあわせるとき、「世界」に革命がおきる。「私」は新しい世界に必然的に入り込んで行く。  音楽にのみ込まれるときというのは、こんな感じだなあ。  「他人」は、このとき「連れ」になる。  そして、この「他人」が「連れになる」というのは、どっちが先かよくわからない。「連れになった」ときに、「他人」がはっきり存在しはじめたのかもしれない。「連れにならない他人」というのは、たぶん、存在していない。「聞こえない音」なのだ。  こういうことばのあとに、さらに 教会堂の柵のねもとで サンドイッチをたべた  あ、ここがいいなあ。「世界」に抱かれている感じ。「世界」と完全に「連れ」になった感じ。  ほかは、よくわからないのだけれど。
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Jul 16, 2016

『モーツアルトカレンダー』コメント

作曲家モーツアルトとピアニストグレングールドとの関係は、グールドとバッハの関係より数段面白いです。K333のソナタを弾き終わったグールドの得意そうな手つき顔つき、子どもがばったを捕まえてきたときのようです。《ドウダイヤッタゼー》あんなに悪口を言って、この得意顔ったら!
Posted at 13:36 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Jul 05, 2016

第八詩集『モーツァルトカレンダー』はとても評判がいいです

おかげさまで、今日もお二方からおはがきいただきました。

「詩集よかったです。響く響く。みな努力してるなと」足利市立美術館で開催中の『高島野十郎展』の使用済みの入場券がはがきに貼り付けてあります。突拍子もなくて面白い方です。大阪のお生まれとか……

「カニエ・ナハ氏の表紙がゆかいでした。囲碁の手法に叶っているのは左上の1個所だけで、囲碁ゲームの規則とは別のルールで道具として使っているのが面白いです。詩もおなじですね。1篇の曲が1篇の詩として存在する、ということもあるし、古今集の春の歌の二番として存在することもあるし、連歌の一句の背後に潜むこともあるし、あるいは伊勢物語の一章の中の1首でもあるし。位相のちがうものの出会いでもありうるし(すれちがいと言う関係性もありうるし)、いくつかの単位の綜合されたなにかの構成要素でもありうるし……けっきょく詩が詩として存在するとは何かという問いがあり、いや様々のものの中での詩の位置の問題でもあるでしょう。」
版元はアルケオプテリックス、始祖鳥という意味だそうです。
どうやら西の方の(日本の)方々がよく読んでくださるような感触です。
このブログが表紙デザインのカニエさんのお眼に留まりますように!
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