Jan 30, 2006

『社会の喪失』と『鱗姫』

『社会の喪失』(中公新書)をようやく読み終えた。カバンに入れてずっと持って歩き、主に電車の中で読みつないだ。読み始めるとすぐに集中できる。先を読みたくなる。このまま下車駅を通過してもっと代み続けたいと思うが、結局は読むのをあきらめて降りることになる。市村弘正さんには、詩集ができると、こちらからお送りするので、お返しに新著を贈ってくださる。最初はいぶかられたが、葉書でなぜお送りするかを説明し、わたしはそのことで、亡き久保覚氏の小さな後追いをしているつもりだ。この新書は、小池政人のドキュメント映画の批評をテキストにして、若い世代の杉田敦との対話のかたちをとっているが、この杉田さんというひとが、なかなかの頑固で(若いはずだが)、いちいち市村さんにたてついているのが、何とも痛快で、市村さんが言葉につまったり、慌てふためいたりするのが、若い世代の、上の世代に対する容赦なさ、即断が、わたしも思い当たるので、面白い。上の世代なんて否定するためにあるんだ、といわんばかりのふてぶてしさを知性でかぶせて。後輩は先輩の精神を吸えるだけ吸って、挙句、まずいやとけちをつけてぽいと捨てる。時代はわがほうにありと自信ありげに。この対話、礼儀は失していないけれども、かなり緊迫している。
ふてぶてしい、といえば、嶽本野ばらは一級品。この京都人のお嬢様オタク。でも魅力がある。かなり自閉症的だが、知的なセンスが端正でいい。ただ人形的というか、工芸的というか、そのへんが乙女チックを出ないかな、人間としての視野がどうかな、たぶん『社会の喪失』を読んだ後なので、あまり言うとじゃ自分はどうなんだ、ということになりそうなのでいけないが、でも、読み物として面白く、また周囲への違和感を「鱗」として悪魔的メルヘンに仕立てているのが、ドウタンベルの詩を髣髴させて、探究心を刺激される。今年の読書はパワーあり、と予感させてもらった2冊。
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Jan 24, 2006

「宿敵」という詩を書こうとしている

が、なかなか始まらない。pspに「美である」というタイトルで書き始めて、これにつなげていきたいと思うのだが、うまくいかない。で、いらいらしている。いらいらの原因はほかにもあるのだが、自分では、もう数ヶ月何もめぼしいものを書いていないことで、いらだっているということにしている。たしかボードレールにそういう題の詩があったと、文庫本を繰ってみると、「仇敵」というソネットが見つかった。ここでは敵は時間であるとされているので、ちょっと違うなと思う。わたしの書こうとして居るのは、具体的な敵だ。つまり人間。どう書くか、まだかけない。
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Jan 21, 2006

時こそ今は…

花は香炉に打薫じ
ボードレールのフレーズをきっかけにしてうたい始められた「いかに泰子、いまこそは」(Ecoute Yasuko, c'est maintenant le moment と訳されている、見事だ)のリフレインを持つ中原中也の詩である。中也の代表作としてとりあげていないアンソロジーもあるが、わたしは自分がフランス詩を土壌にしているせいもあって、この詩が中也の中では最も好きだ。シチズン時計の入社試験のとき、記入した書類を見て、審査員から中也の詩について質問された。好きな詩人として適当に書いておいたのに目をつけられて、ドキッとした。実はあまり読んでいなかったから。「汚れっちまった悲しみに」の最初の2行を暗誦すると、それで許してもらえた。たぶん審査員も中也をあまり詳しくは知らなかったのだろう。質問が他に移って、ほっとした。面接試験で覚えているのはそこのところだけ。「時こそ今は…」を読んだのはそれからずっと後のこと。
イヴ=マリ・アリュー氏による中也の全詩仏訳本が昨夏にフランスで出版されて、わたしは宇佐美斉さんから雑誌「流域」にかかれた紹介文のコピーを頂いた。昨日ようやく新宿のフランス図書にひきとりにいって、手に入れたが、じつに美しい本である。 この恵みの薄い短い人生を終えた詩人の詩が読まれるということは、ほほとんど奇蹟に近い。後の人々が愛惜して、ようやく、その詩の本当の価値が、かたちとして示された。「詩人が死んで」のシャンソンをまるで地でいくように、苦労性で、人生の洞察に長けたフランスで、読まれるように。ベルレーヌに似ている中也がランボーやボードレールを下敷きに詩を作ったように、中也を下敷きにフランスの次世代が生まれるように。そのために、ゆうがた、揺り香炉のように、薔薇が揺れてにおって、この日常の美しさにひととき浸る、詩はそこにあると、この本は証言する。すぐに消えるが、祭壇に祈るまでもなく、今、ここにたしかににある。
写真もたくさん挟まれているが、そのうち、二九歳のきちんと背広を着た肖像(三〇才で死んでいるのだ)を見て、イサクが、頭のよさそうな顔してるね、と言った。たしかに、と思った。
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Jan 15, 2006

そして西へ、さらに南へ

 ――みなさん、ジャンヌに言及していますが、わたしは断然「南へのバラード」ですね。極言すればこの一篇があればこの詩集はじゅうぶんだとさえいえるとおもいますね。
上記の引用は一昨年8月に出版した『ジャンヌの涙』についてある人からいただいたはがきの一節。それをいま引用したのは、この1年あまり、「ジャンヌ、ジャンヌ」で暮らしすぎたようだと、気がついたからだ。残りの時間をどう生きるか、を考えるとき、ようやく見えてきた一すじがあって、そのイメージはわたしをとても落ち着かせてくれる。
私は両親が農家の出身なので(一度確かめに両方の土地を訪れたことがあり、その経験が私に断定的な言い方をさせてくれる)、自分が定住型だと思っていた。今居る場所に落ち着けないことは恥ずかしいことだと、ひそかに思っていた。だが、両親の親たちがその土地に定住していたほどには、じぶんは定住すべき場所にいるわけではないと最近何となく感づくようになった。動いていってもいいのだ、その時自分の精神が活性化し、自分の思っていた自分ではないもっと別の自分が表れて来るかもしれない。見えていなかったものがきっと見えるだろう。
 「南へのバラード」は詩誌『ミッドナイトプレス』2004年夏号に掲載された作品で、そのモチーフにはモデルがある。そしてそのモチーフは自分の6歳の時の戦争体験とどこかでつながっていると言う感じがする。残りの短い時間のなかで何かを分かろうとすれば、じっとしていてはダメだ。もうテーマは出揃っているはずだから、ぐずぐずしてはダメだ。
 一日中一人で居ると、ふと「ジャンヌ、ジャンヌ」という声が聞こえる。ドンレミイ村で毎日のように聞こえたという声は一人幼いジャンヌにでなくても、はるか21世紀になってもやってくるのだ。

九分通り癒えて捨てらるホッカイロ  かおる
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Jan 12, 2006

一進一退

今年はすべり出しがいいと思っていたが、そうでもないかな、と、まるで相場の変動を気にするようにいらついた気持ちに陥りがちなことに気がつく。こういうときは「バカになる」にかぎる。例えば、テレビの知識でもいい、猫は人よりずっと多くの睡眠時間を必要とするとせつめいしているのを、うちの猫たちを見ていて思ったことにぴったりあっているので、なるほど、と感心したり、ミレーの油絵「種をまく人」のバックに小さく描かれているのは、種をまく男と同じ方向に進んでいる、刈草を積み上げた台車に乗った人物ではなくて、人物はそうだが、2頭の赤牛に引かせた鋤に乗った男で、種まく男とは反対の方向に進んでいるのが、今日はじめてわかったとか。バカになると、今まで思い込んでいたものが、違うことに気付く。あるいは疑問だったことが解ける。草を積み上げたと思っていたのは、じつは大きな牛たちの四角い尻だったし、鋤に乗った男はベージュの帽子をかぶっているし、女ではなく男だと思うのは膝を曲げた足が長く細く、踏ん張った姿勢が男の姿勢だから。前景の男は右手を開いて、手のひらいっぱいに種(?)をつかんでいて、その手の背景にはからすが群れ飛んでいる。畠は平地というより、多少丘になっているように見える。丘の稜線の上が明るんでいるが、午前中か、夕方かどっちだろう?タイツのような青いズボンの大腿部がたくましく、兵士のように見える。人は大地と戦って糧を得ていたのだ。
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Jan 04, 2006

『好きな人の…』と『火曜日になったら…』

やはり詩集のほうがとっつきやすいのでしょうか、評論のほうは読みかけて放り出して、詩集2冊を読み終わりました。斎藤さんの『すきなひとの住んでる街へ』は1990年出版の第一詩集。渡辺さんの『火曜日になたら戦争に行く』は2005年10月。ここに全く偶然に同席させられて、おふたかたとももじもじ当惑していらっしゃるだろう。お許しあれ、あなた方をご同席させてしまったのは、有働の全くの恣意であります。斎藤さんのはもう実物はなくなって、コピーだもの。偶然、有働の怠惰により、この2006年の冒頭に、この有働のしがない、幽霊のようなウエブコーナーに引っ張り出されて、「こまってしまぷ」でしょう。ごめんなさい。と、これは、渡辺さんがけっして代名詞を使わないで自己を固有名詞で名指されるのをへたくそにコピーしたまでであります。「持っていかれる」と悪い意味で使う、影響されやすい、という心情の自立性のなさをたしなめて言うことがありますが、渡辺さんは完全に持っていかれているのです。何に?ケータイに、コンビニに、福岡地震に(台風だっけ)。若芽のようにいたいけな感受性の故に、毎日新しい災厄に「持って行かれているのです」。ぼくとかわたくしとかおれとかに自分を置き換えるヒマもないほど矢継ぎ早に襲われているのです。対して、斎藤さんは「きみはいちずすぎる」と恋人に言われてしまうほど、トスカナのカララ山の白大理石ほど、純白で硬く、容易に鑿をうけつけない自我の持主。これって、男女逆転していないかしら? 女性がりりしく、構築的で、男性が流れに揺れる藻草のようにやさしく。このひとたちは、自分の個性をちゃんとつかんでいると思う。荒削りではあるが、自己の原石は掘り当てている。あとは、人の目に分りやすい形に細部を形成すること。この対照的な無定形性を、どんなかたちにまとめて行くか、だと思う。対照的とはいえ、その純度は両方とも抜群。その純度のエネルギーが内から突き上げて書かせているのだと思う。やはりテーマを持つべきだと思う。蛾の少女・アンリエットのように、「その時」を懼れずつかまえるべきだと、それは、自分も含めて、そう思うのだ。
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Jan 02, 2006

2006年に入りました

2005のほうが切れがよかった気がする。6年は温和な年になるかな。偶数は温和な調和的な感じ。ヴェルレーヌは詩は奇数にありとした。安定的な感触を嫌ったのだ。 さて、今年の抱負は、たくさん読むこと。何でもいいから読みまくるぞ。読んでどうなることでもないが、もう大して読む時間がないと思える。自分の脳みそに少しでも多くの文字を刻み付けて安らかに死にたい。お金をかせぐより、ものを読みたい。お金にならないことをたくさんしたい。稼ぐ時も、半分は自分のためになるように働きたい。だから報酬は半分でいい。消費も半分にする。半分死んだ状態で、あとの半分で猛烈に読む。それが今年の抱負です。 まずは『落日論』宇佐美斉、『三好達治と立原道造』國中治、『火曜日になったら戦争に行く』渡辺玄英、『好きなひとの住んでる街へ』斎藤悦子、『詩の降り注ぐ場所』鈴木比佐雄、『日本語で読むお経』八木幹夫、それに市村先生の『社会の喪失』をまだ読み終えていない。いざ、まいらむ。
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