Oct 24, 2008

あさやけ3羽がらす

21日夜のヴォワ・デ・ポエット263には、あさやけ会の3人の方もお見えくださった。久保覚さんの没後十年の会の折に、久保さんを書いた詩「東京キッド」を聞いてほしいとお願いしてあったのだ。約束どおり、ちゃんと見えてくださった。客席が明るくて、彼らのお顔がよーく見えたので、読み手の私のほうが上がってしまい、壁に貼り付けた原稿をまず読んでから、挨拶に入るという手順を抜かしてしまった。始まってやや経ってから気がついたのだが、すでに遅し。折角の構成が…。さらに、声を届かせようと本を顔の前に高く差し上げて読んだのを、終了後、プロデューサーの天童さんから指摘された。あさやけ会は安保闘争の時期に久保さんを中心に活動したインターハイスクールの会。わたしは参加していなかったが、彼らの活動については関心があった。知的にきわめて敏感で、読書会や討論会を組織し、高校の垣根を超えて活動していた。21日に詩を聞きに来てくださったのは都立上野高校生(だった人)が2人、都立戸山高校生が1人。もちろん現在は70代で、私より2,3年上の人たちだ。その夜は他に、竹早高校の同級生の親友も見えたので、図らずも、会の後の飲み会では、〈インターハイ〉の観を呈した。楽しかったです。時間が縮みました。友よありがとう!
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Oct 10, 2008

緒形拳さんと詩

7日の朝テレビをつけて驚いた。緒形さんが亡くなったというのだ。 1週間ぐらい前に、竹早高校の親友で、同じ演劇部だったクロちゃんと、電話で彼の話をしたばっかりだった。昼近くなって、クロちゃんに電話したら、ご主人が、朝電話をしたようでしたが、今は医者に出かけています、とのこと。行き違いだった。けっきょく電話で話せたのが夕方の6時近くだった。
高校のわたしたちの学年に緒形さんが居たということは、奇跡のようなことだったと、クロちゃんは言う。演劇部ではいろんなことがあった。クロちゃんはクラスも一緒だったので、いっそう縁が深い。リチャード3世を見に行ったときは、銀座で花束を買って楽屋に届けたこともあった。時間が早すぎてまだ見えていませんとのことで、けっきょく会わずじまいで、花束だけ預けた。
わたしたちは陰の応援団で、いつかファンクラブ作ろうねとも話していた。
ある年のクリスマス近く、封筒が届いて、緒形さんが書を送ってくれた。素敵なクリスマスプレゼントだった。クロちゃんが『冬の集積』を緒形さんに渡してくれて、そのなかから、3篇を薄い和紙に、特徴のある四角っぽい字体で、墨で書いてくれてあった。添えてあったお手紙に、ぼくはこれからだと思っています、100歳までやりたい、とあったので、それで、わたしは7日の朝のテレビの項目の最後に出た文字が信じられなかったのだ。
1枚だけの手紙だが、高校のときどんな自分だったか、わたしがどんなふうに見えたか、チベットに行って、これを書いたとか、チベットがとてもよかったとか、いろんなことが書いてある。詩を書いてもらったことも感激だったが、このお手紙が素晴らしい。
テレビで俳優の方が、寡黙な人だと述懐していたが、たしかに、緒形さんは、人前でしゃべるより自分で文章を書いたほうが自由だったかもしれない。
息子さんたちが、素晴らしいオヤジだった、人間としても尊敬している、と話されていた。高校の同級生だった私たちも、素晴らしい方でしたよ、と息子さんたちに伝えたいと思う。
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