Sep 09, 2008

つよい集中力を要求する詩―中本道代『花と死王』2008年7月31日思潮社刊

『花と死王』というタイトルは必ずしも明快ではない。花はともかく、死王とはどんなイメージに誘うものなのか? 花と読み、その下で戸惑う。もしや満開の桜なのか?いや西洋の、例えばアネモネのような大輪花、あるいはフランス王室紋章の雪白の百合?それら高貴な花々の陰?いや、詩集後半の死王の描写に精嚢をもつとあるから、男性神に違いない。迷ううちに、渦巻きの中心に行き着くように、ぱっとイメージが結実する。ああ、これは生と死の結晶系なのだと。アンドロギュノスのように、宇宙を1つに凝結する系としての、自家受粉器官のある、生命体なのだと。たとえば、歌舞伎の女形、男性の肉体に支えられた華麗な女性形。男と女の片身ずつの結婚形より、美の領域はもっと強い凝結を求める。その凝縮の緊張によって恐ろしいほどに馥郁する開花。その花びらの陰影。死王は影であり、男であり、種であり、破滅の源であり、開花の基であり…ここまで来ると、中本道代の詩の宇宙がタイトルからも開かれ始める。
作品はそれぞれタイトルのつく4部に分けられていて、各部は5篇から11篇の行分け詩と散文詩から成る。
最初の部「辺縁で」(ヘンエンと読めばいいのだろうか)に含まれる5篇のうち、好みを言えば「水の包み」がいい。タイトル詩「辺縁で」もいいが、これはかなり難しい。この難しさが、中本詩の個性なのだが、それに迫るには、待てよ、もう少し読まなければ、と、どきどきして来る。作者と読み手の自分との距離をまだ測りかねるのだ。4つめの「水の包み」まで来ると、詩化された華やかさと、愛らしさ、そして消失の憂いに包まれ、優しいカタルシスがやってくる。進行にも余裕があり、とりわけ女の子らしくて、うれしい。しかしこのグループの作品の最後に、もう「死王」への呼びかけがはじまる。「水の包み」つまり生命が凝縮して雪に変わり、まだ本当の死ではないが、死への約束(予感)がはじまるのだ。
次のパート「高地の想像」は11篇で、詩集の中心を形成している。わたしは散文形で書かれた「犬」が好きだ。「わたしは犬といっしょにインドに行きたい。そしてフランスに。」こんななんでもないフレーズにたまらなく引き寄せられる。まだ知らなかった楽しい1日にめぐり合うように。どの作品も不思議な抽象によって構築されており、愛らしく楽しいのだが、その風景には「思想が、…崩れる予兆をなして、置かれている。」シュペルヴィエルのモノクロの肖像写真が目に浮かぶ。都会に住みつつ、常に大自然の風と交歓している詩人。鳥が鳴くのも、猫が眠りこけるのも、本当の生は一瞬である。だがわたしたちには記憶がある。詩がある。と抗ってみる。
「カタラ」と名付けられた7篇。ここはプライベートパートといってよい。あるいは記憶の。焼き場へ行く道に祖母と「カタラ」の葉を摘みに行くという。カタラとは、例えば北九州のわたしの母の故郷ではサルトリイバラの葉を、ふかし団子を包むために摘みに行く。ハート形の少しだけ臭いのある、とげのあるつる植物の葉なのだが、そんなことを想像した。このパートでは詩化の力、詩人の長い時間におよぶ精進の成果といったものを強く感じた。
「新世界へ」と題する最後のパートは5篇。現在世界の肌触り、ざらざらした、無機質な、潤いのない、何層にも重なって果ての見えない生。はかなさとは反対の、仏教でいう輪廻の世界にわたしたちは入ってしまうのではないか?「結局はまたそこに還っていく。」その中に死王は姿をあらわし、「弱々しい精子が零れ落ち」る。弱々しい生殖によってくり返される生の反復、終わることのできない生。香り高い開花は良き死を迎える喜び、という逆転への直感がここで完結する。
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