Jun 16, 2016

モーツァルトを許さないグレングールド

 グレングールドは音楽の本質に向かって、生涯をかけて深く沈潜していったピアニストだ。 その意味では、晩年のモーツァルトにその本質は共通する。モーツアルトは嫌いなのではない、もっと否定的だ、許し難いのだ。と語る。モーツアルトは早く死にすぎたのではない、死ぬのが遅すぎたのだ。「自分の資質に頼って増長して生きたために、二流に落ち込んでしまった」とまで貶す裏には、心配でしょうがない親心のようなものが垣間見える。おれはモーツアルトの二の舞は踏まないぞという自己に対する警告のようにも聞こえる。モーツアルトの妥協を入れない音楽活動に自分の活動の方向を見ていたのかもしれない。世間の風当たりが厳しくなればなるほど、モーツアルトには焦りの色が濃くなる。自分の音楽に対する顧慮と同時に、自分の持ち時間に対する焦りも感じはじめる。モーツアルトが作品ノートを付けはじめた時、自分の命の証しを確保したいという欲求も目覚めた。物凄く多忙だった、そうしなければ生きていけないフリーランスを余儀なくされていたにもかかわらず、これだけは譲れない、と自覚したのが、自分の音楽作品の拡散をなんとしても防がなければならないという自意識だったろう。自分の作品は自分自身の命の核から噴出してくる自分の命そのものだという自覚。生きることはその奔流をかたちにして見えるようにすること、そのことが唯一無二の自己証明だった。グレングールドもその点では共通している。ただモーツアルトのように生活に逼迫はしていない境遇だった、芸術家として恵まれていた、だからモーツアルトよりさらに深く本質的であることが許された。後代の音楽家の強みだろう。モーツァルトに足りなかったところ、そこをあやまたず的確に突いて、それを自分の音楽家としての指針にもしたのだろう。それほど嫌いな音楽をあれほど熱中して再創造し、まるで《情事の最中のように》身も世もなくさらけ出してしまう。まるで白と黒の鍵盤が清潔なベッドに見える、その上で求める人とする生殖行為、つまり生き物として、まっさらな新たな世代の生き物を創りだすための待ったなしの行為を、まるで創物の神に命令されたかのように素直に実行するのだから、いのちを遣う行為、をごまかさない、それがモーツアルトとグレングールドに要求された、生れてきた意味に従容として従うことが人間のなすべき唯一のことだ、という本質に最も近い人間=自然としての共通点だ。グールドはモーツアルトが挫折したところから立ち上がってさらに深く降りていった、それは時代が進んだからだともいえる。映像でみると痛々しくてひりひりする。
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