Aug 28, 2016

モーツァルトカレンダー 無産のパイオニア

5月にエッセイアンソロジー『モーツァルトカレンダー』を私家版で出版してから、3ヶ月が経ちますが、以来なぜモーツァルトなのかをずっと考えてきました。齢70を越えて、なぜ7,8歳の頃から耳にしているメロディーの断片がこうも強烈に私の内部に復活してきたのか? まあ、毎日のご飯のような音楽だからな、で納得しようとしましたが、そういう理屈ではどうも収まりません。今朝になって突然、「無産のパイオニア」という言葉が降りてきました。これだ!というのは、講座の夏休みに入って、長年やりかけていたモルポワの『イギリス風の午後』の追い込みに入って、巻末付録のグロッサリーを訳し終え、続いて9月からの講座のテーマ、アンドレ・ブルトン『ナジャ』を詳しくもちろん翻訳で読み込んで、これらがからまって「テラン・ヴァーグ」なる言葉が立ち上がって来、それと『イギリス風の…』のメインテーマであるルソーの『新エロイーズ』の成り行きと、これらが渦巻いて中心の渦の目のところから飛び出してきたのがこのフレーズです。そしてコレは私だという「達観」も。大げさですが、たしかにこの経過は、私にとって達観、つまり到達点なのです。いま、若いモーツアルトが父親に送った手紙の一節が思い出されます。《ぼくの財産はすべて今ぼくの頭の中にあります。》この考えはルソーの『新エロイーズ』とぴったり重なります。さらに、よく感じることですが、フランス現代詩を読んでいると、その詩人のオリジナルな言葉と思っていたものが、ほとんど必ず、他の詩人たちとの共通な言葉であるという驚きです。あれほど自我の強烈なヨーロッパの意識がなんと全てつながっている、ブルトンの言う「通底」です。「テラン・ヴァーグ」というこのあいまいな、訳しにくい言葉も詩人たちの共有財産だったのだと気付いて、安心するやら、あきれるやら、口をあんぐりの状態です。
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