May 14, 2007

グラマンなのか

昨日の研究会の席題は、母、見、みね(嶺、峯、峰)、花、働。 出句は3句:
 父の日や働き者の母でありし  1点
 五月晴れ峰打ちくらふ視線あり 1点
 夏服や新システムの稼働率   2点
びっくりしたのは以下の挨拶句:
 有働薫の弾んだ声や夏兆す  
飲み会で、Mさんと話した。福岡県の久留米に近い町のご出身で、大正14年生まれ、16歳で徴用工として、佐世保港のドックで軍艦の修理にあたっていた。修理が終った戦艦はそれを守る駆逐艦を従えて艦隊を組んで試運転をした。ノット数は駆逐艦の方が高いのに、しだいに戦艦より遅れていく。なぜかというと、波が荒いと、波の動きに小柄の駆逐艦は乗せられてしまうからだ。昭和19年5月からは工務兵として鹿児島の飛行場(知覧ではない。鹿児島湾の底に位置する隼人という町から1000メートル山に登ったところにある)で爆撃機の整備をされていた。その話から、わたしが6歳の時、終戦の年7月末、疎開先で機銃の攻撃に遭った米軍機は、グラマンという、羽根を切った一人乗りの小型戦闘機だったらしいことが分かった。6歳の私が見たのは確かに一人だった。グラマンは爆撃機(B29)の護衛機で、昭和20年に入ると、毎日、無数に日本の上空に飛来していた。日本の防衛力はその時にはもうゼロに近かった。かろうじて残りの飛行機を鹿児島に集めて、毎日明け方になると、まず、戦闘機(ゼロ戦)を発進させ、その後、爆弾を積んだ爆撃機(彗星)を飛ばした。沖縄を取り囲んでいる米艦までたどりつき、爆弾を命中させるのが目標だった。飛び上っても、上空では米軍機が受信機を使ってキャッチしてすでに待ち構えていた。 Mさんと私の意見の違うところは、わたしが日本の兵隊として負けたらその時点で義務は終るのだから投降して生還を図るべきだと言うのに、それは戦後の考え方で、当時は御盾(みたて)部隊といって、自分の命を救うなど考えもつかなかった。オーム・サリン事件などでも分かるが、平時では考えられない心理状態なのだと反論された。だからこそ負け方のしっかりしたマニュアルを、捕虜になるな、自決しろなどという乱暴なものではなくて、冷静に合理的に生還を図れるように教育しておくべきだろう。また靖国神社については、感情は半々だ、と複雑さを示された。飲み会での話である。
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