Sep 07, 2006

この夏の収穫

 この夏を印象づける、また終戦から61年目の夏を終えるにあたって、2つの特徴ある出版を挙げよう。1つは岩切正一郎氏による新しいボードレール論『さなぎとイマーゴ』、もう1つはコ・ヒョンヨル作ハン・ソンレ訳の長詩『リトルボーイ』、どちらも大部な力作で、読み手の側も本来的な意味で作品に対峙する胆力を要求される。『さなぎ…』のほうは383ページのボリュームにまず圧倒されるが、読み始めると、びっくりするほど口当たりがいい。よい意味でである。つまり、鈴木信太郎訳の岩波文庫『悪の華』をめくりながら読み進むうち、信太郎訳がすいすい入ってきはじめるから、おどろく。本書中の訳と解析を通過して、なんと信太郎訳の「よき古さ」が逆くにこちらに流れ込んでくる。岩切さんは長年ボードレールに取り組んでおられる学究だから、満を持しての論考だろうが、そういった堅苦しさがなく、現代っ子学者とはこういうものかと思わせるクリアさ(明晰)と柔軟さが全体を領している。ボリュームを気にしながらも楽しく『悪の華』再読を歩きとおし、この恐ろしき詩人、人間としての巨人性をしみじみとと受け取ることができる。端的に言えば、ユゴーとボードレールの違いをなんのもつれもなくこちらの引き出しにしまいつつ、ユゴーに捧げられた詩、ユゴーの賛辞、ユゴーより20歳若く、ユゴーより20年先に死んだ(生の長さはユゴーのたった半分でしかなかった)その苦闘の詩学にしばし呆然とするわけだ。世代が進んで、詩が新しくなるためには、詩が再読、再々読に耐えうる質をそなえているかいなかが肝要だ。
 そういった意味での時間の経過の面から、広島原爆投下を叙事的にとらえた7900行の力作『リトルボーイ』が韓国の詩人によって書かれたことは意味深い。広島の犠牲者(広島20万人、長崎14万人)のうち1割が韓国から徴用された人たちだったという事実が日本の原爆被害として同列に、わたしたちの意識に刻まれてはいないことに粛然とさせられる。そういう申し立てをわずらわしいものとしてしか受け止めてこなかった日本社会の狭量さが、戦後60年以上経っても「仲直りできない」根っこにあるのはまちがいないだろう。わたしたち日本人の歴史的意識の底に淀んでいる韓国、中国に対するいわく言いがたい感情の歪みを、加被害関係の視点を超えた文明論として整理し認識しあう作業が必要だろう。その提案を韓国の側から出されていることに、わたしたちはあわててもいいのではないか。そしてこの作品はこれも大部さが気になりながら、ちっともいやではない、むしろさあ、この続きはどうなるのだ、読みたい、という思いで最後のページをめくらせる詩的レベルをゆうに備えているのだ。出版元の鈴木比佐雄氏によれば、事実誤認ほか問題点の修正につとめたとのことだが、この背骨の通った作品のすごさには変わりがない。鈴木氏のコメントの書き方が実に爽やかで、同じ翻訳を業とする者として、大変うらやましく思うことでもある。朝夕の涼しさに浸って、今年の夏の過ぎていくのを見つめている。
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