Oct 05, 2015

ヒルデスハイマーの「モーツァルトは誰だったのか」

《誰だったのか》とあらためて問わなければならないほど、現在のモーツァルト像は18世紀後半に実在したモーツアルト本人からかけ離れてしまっているとヒルデスハイマーは言う。そうした虚像を《洗濯いたし候》というのがこのエッセイの趣旨であるからとても面白い。この20世紀前半を苦難のうちに生きた(ナチに追われたユダヤ系ドイツ人作家である)強い視線から、過酷な生を遂げた天才音楽家の贅肉の取れた素の姿が浮かび上がる。ことにアウグスブルグの従妹テークラへの分析がうれしかった。自分のテークラ像がいっそう確かめられた。そもそも(とあらたまって)私がジャンヌ・ダルクへの関心からモーツアルトの音楽に詩作のテーマを移したのも、この辺の事情にあるからだ。ジャンヌへの関心が遠のくきっかけは、ジャンヌと母親との関係に行き当たった時だった。このへんの込み入った事情はいずれ自分の詩で説明しなければならないと思っている。単純に言えば、今はオルレアンに行くよりアウグスブルグヘ行ってそこの空気を吸ってみたいと思うということである。「モーツァルトが心中を吐露したのは、ただひとり、音楽だけである。その音楽にしても、彼の人生や生活体験との並行関係を樹立しようと努力する人たちには、解明の鍵となってくれない。そのためには、芸術的純化という途方もない過程を跡づけて追体験できなければなるまい。だがそれを実現するためには、またしてもモーツァルト流の天才的な描写能力を必要とするであろう。…」丸山匠訳、白水社1976年刊。作品から作者の実像を導き出すことはほとんど不可能だ、それが可能なのはモーツァルトのような天才だけに限られる。つまりお前にはできないぞと判定されたようなものだが、がんばれ、うどうサン!!
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