Sep 12, 2005

俳句は、詩はと

分けて考える必要はないけど、同じコトバという文化を使ってする遊びでも、表し方は違うと思う。俳句は日本独特の表現形式で、様式(形式)美を追求することを主眼にする。詩は、自我、「私」をスタートにする。形式は製作の過程で内的に流れ出てくる。俳句のようにあらかじめ洗練された枠が与えられてはいない。だから詩と俳句をスタートの時点でごっちゃにして居ると、どちらも「もどき」しか作れない。表現者は明確な自覚の上で作業を開始しなければいけない。詩は自然に湧いてくるもの、さいしょの1行を神様が書く、とかの銘句に惑わされ、自分を甘やかしていたのかもしれない。近ごろ少し気持ちが整理されてきている。
素秋なり屋根のはざまの明かるくて 薫
Posted at 16:36 in n/a | WriteBacks (2) | Edit
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少し体験談ですけど。
まだ10代のころ吉岡実さんの「サフラン摘み」と格闘して読んでいて、解らなかった。それでこの方が俳句に親しんでいると聞いて、実は一瞬にして難解さが崩壊したことがありました。それが私には難解な現代詩の開眼でしたか。
大方の俳句と現代詩をこなすひとには、うなづけることだと思います。
ということは詩を書きながら、私は初めから区別していたことにもなりますが。

Posted by tomizawa at 2005/09/12 (Mon) 20:42:43

冨澤さん、コメントありがとうございます。俳句と詩は男と女かしら。同じポエジイという土壌に立ちながら、肉体構造が異なる。違いを認めながら強烈に引き合う。さらに反発し、憎む。
わたしの場合、このコースを逆から進んでいる。憎む、反発する、そして、いま、その違いに魅惑されている。

Posted by udou kaoru at 2005/09/14 (Wed) 10:07:13
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